【宗教リテラシー向上委員会】 言葉をかける、橋を架ける 向井真人 2025年7月11日

7月盆を迎える。お盆には亡きあの人が浮き世へ戻ってくる、そして時が経てば帰るとも言われる。ここにはあなたの知るあの人の「死の追体験」がある。仏壇や祈りの祭壇など日常の中に死という概念は存在しているが、ふだん意識をされない。気にしないでいるのは、私たちが必死に生きているからこそであり、それでこそ健全ともいえる。ただ、お盆は死が終わりではなく、生とつながっていることも改めて意識させる。生と死は、まるで1枚の布の表裏のように重なり合っている。
人は生きる中で、さまざまな「喪失」を経験する。自分のアイデンティティーと思っていた部活を引退する。応援していたアイドルがグループを解散する。愛するペットが死んでしまう。親しい友人が引っ越しをする。自分が病気になる。これらはすべて喪失体験、すなわち「ロス」である。誰かがロスを迎えた時、私たちは悲しみに寄り添い、励ましの言葉をかけようとする。喪失の痛みは、生きることの尊さを映し出す鏡だ。悲しみを分かち合うことは、愛の行為であり、命のつながりを深める。
仏教では、諸行無常、すべては移り変わる、と説く。命あるものは必ず終わりを迎える。この無常を忌避する心は、誰しもが抱く自然な感情だ。しかし、無常をただ恐れるのではなく、変化を受け止め、刹那の美しさを慈しむ心を育てたい。お盆は、今は亡きあの人と向き合うことで、その智慧を養う機会でもある。ひとは無常を恐れるが、だからこそ「言葉がけ」をしてほしいと思う。目を閉じて私心もなく敬虔に、祈る。また、例えばロスを経験した人に対して「今は亡きあの人の生き方を教えてください」と聞いてほしい。思い出を語ることは、今は亡きあの人の死を今の命につなぎ、語る人の心に生きる力を与えるからだ。そして死を意識することは、生の輝きを一層際立たせる。「言葉がけ」はお盆の輪郭をはっきりさせるのだ。
さらに、言葉がけとは、今は亡きあの人の周辺に対してだけではない。日常で、大切な生きている人に「今」を伝える言葉を贈ろうではないか。日常で誠実な言葉をかけ続けよう。友人に「あなたがそばにいてくれて嬉しい」と伝える。家族に「いつもありがとう」と言う。そんな小さな言葉がけが、相手の心に温もりを残し、生きる力を育む。お盆の時期、今は亡きあの人へ語りかけるように、生きている人にも心からの言葉を届けたい。
もちろん自分にも言葉がけが必要である。私たちは他者に言葉を贈る一方で、自分自身にも優しい言葉を向けることを忘れがちだ。無常の中で生きることは、時に心を疲弊させる。喪失の痛みや日常の重さに直面するとき、自分を責めたり、孤独を感じたりすることがある。朝、鏡に向かって「生きているだけで尊い」とつぶやく。夜、疲れた心に「よくがんばったね」と語りかける。そんな小さな言葉がけが、自分を癒やし、明日への力を与える。亡き人や他者に言葉を贈るように、自分にも愛の言葉を届けよう。
お盆とは、今は亡きあの人と向き合い、生きている隣人と向き合い、自分と向き合うことを勧めてくる。無常の中で生きる智慧を深める時である。亡き人が帰ってくるらしい、だけでは足りない。言葉がけによって、生と死が重なり合う、この人生を豊かにする橋を架ける。
向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。