【Web連載】ボンヘッファーの生涯(番外編) 今秋公開の映画『ボンヘッファー』は問題作か? 福島慎太郎 2025年7月19日

はじめに
2025年11月7日に映画『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』(原題 ”Bonhoeffer : Pastor, Spy, Assasin)の公開が決まった。ディートリヒ・ボンヘッファー(1906〜1945年)は優れた神学者・牧師であると同時に、ナチズムに迎合するドイツを憂いて抵抗運動を展開した人物でもあり、最後は収容所で処刑された。
映画について日本のキリスト教界ではすでに盛り上がりを見せているが、一部の層からは批判や冷静さを保つようにとの声も挙がっている。
例えば僕が確認している範囲で、この映画について最も反響のあったX(旧Twitter)のポストでは「アメリカ福音派メディアのエンジェル・スタジオ配布作品で、キリスト教ナショナリズムに利用されている悪名高い作品」と言及されていた。
制作会社の背景
エンジェル・スタジオは2013年に設立された映画制作・配給会社で主にキリスト教的信仰や価値観を取り扱った作品が多く、北米を中心に福音派と呼ばれる保守層から一定の支持を受けている。一方、それと同時にその内容や影響力からしばしば議論の対象としても取り上げられてきた。
例えば2023年に公開された映画『サウンド・オブ・フリーダム』。この作品では児童人身売買の実情とそれに反対する実在の人物ティム・バラードの活動が取り扱われているが、実はそれらがQアノンはじめ、いわゆる「陰謀論コミュニティ」で話題となり、彼らの見解を支持するための材料として幅広く引用されることとなった。

映画『サウンド・オブ・フリーダム』
実際ローリング・ストーンなどのメディアでも映画が「極端な政治的イデオロギーと結びつけられる可能性がある」と報道されたり、またバラード氏自身の活動内容にも一部誇張表現があるなどの指摘を受けている。
エンジェル・スタジオ側はあくまで「芸術的表現」の観点から一部にフォーカスを当てたり、視聴者の感情を揺さぶる描写も組み込んでいるがおおむね事実に基づいており、特定の政治的・宗教的主張や陰謀論を支持する目的はないと説明している。
そして上記Xのポストでもまた、そのような懸念が映画『ボンヘッファー』に向けられている。本作は果たして「問題作」なのだろうか?
映画『ボンヘッファー』はナショナリズムを歓迎している?
初めに言っておくが、別に僕はボンヘッファーのすべてを擁護するつもりはないし、どこかから執筆を依頼されているわけでもない。そして「ボンヘッファー」という不思議な人物を捉える上で多角的な批判は絶対になされるべきだと思っている。
まずXのポストが掲げる問題点を整理するなら「影響力」であろう。投稿主はこの映画がいわゆるキリスト教ナショナリズムを助長していると指摘している。
これについてはおおむね「事実」である。この映画が最初に公開されたのは北米圏であるが、ちょうど大統領選の時期と重なっていた。そしてトランプを支持する一部のキリスト教保守層(いわゆる福音派など)が「われわれはボンヘッファーと同じ境遇」などと取り上げ、アメリカ中で話題となった。ただし、これについては国際ボンヘッファー協会およびボンヘッファーの親族が反対。「ボンヘッファーは彼が利用されている過激な右翼思想や暴力的言説に近づくことは考えられす、むしろ批判していたはず」とコメントしている。
また、作家エリック・メタクサスが2011年に記した著書『Bonhoeffer : Pastor, Martyr, Prophet, Spy』と映画題が類似していることもそれに拍車をかけた(エンジェル・スタジオ側は否定)。メタクサスという人物はアメリカ国内で有名なクリスチャンの作家・講演家であり、また2016年以降熱心なトランプ支持者でもある。

トランプ大統領とエリック・メタクサス(右)
実は上記の著作はニューヨーク・タイムズのノンフィクション・ベストセラーにもノミネートされ、巻頭言にはアメリカ元大統領ジョージ・W・ブッシュが言葉を寄せているなど北米圏ではある程度の影響力を持っている。また、メタクサス氏自身も現代のアメリカ政治を1930〜40年代のドイツ教会闘争になぞらえ「ボンヘッファーの瞬間」と発言したり、トランプ勝利について「神からの贈り物」と表現するなど支持者を煽るような言動が見受けられる。
これらの複合的な要素もあり、アメリカのキリスト教保守層の間でボンヘッファーは一定の支持を受け、さらに上述の通り大統領選の時期とも重なったことにより、映画の存在はますます注目されることとなった。
ちなみにメタクサス氏の『Bonhoeffer』は僕も読んだが、ボンヘッファーの生涯をキリスト者以外にも伝わる表現と切り口で描いている点については多くを学んだ。また初版では牧師のティモシー・ケラーが巻頭言を執筆しているなど、神学的評価もそこそこに高い。ただ「作者の死」(ロラン・バルト)というか、作者の意図より読者の解釈が優先される時代において、特にボンヘッファーのようなある種の魅力と危険性が伴う人物については読み手のリテラシーが重要となるだろう。
「拡大解釈」という指摘について
次に神学者マイルズ・ウェルンツによる米「クリスチャニティ・トゥデイ」への寄稿に注目したい。こちらは、映画で描かれているボンヘッファーの生涯が「英雄視されているのでは?」という指摘である。
例えば映画内でボンヘッファーのニューヨークでの生活を描いた場面について、彼が黒人から差別を受け、それらを赦す場面が過度に描かれていることは拡大解釈ではないかという指摘。またフィンケンバルデ牧師研修所での描写がほとんどヒトラー暗殺計画のための準備期間として描かれており、視聴者に誤解を与えるのではないかという危惧が投げかけられている。
僕も今年5月に行われた関係者試写会に参加したが、確かにニューヨークで彼が出会ったブラックゴスペルや黒人教会、社会福音などは後々の抵抗運動や獄中での執筆活動に大きな影響を及ぼしているものの、映画内容のすべてが〝そのまま〟のボンヘッファーであるかは何とも言い難い。またフィンケンバルデ牧師研修所も本来の目的は牧師の養成であり、あの場所から『共に生きる生活』が生まれたことがそれを物語っている。しかしキリスト者以外も視聴する映画においてどの部分をフォーカスするかと言われれば、やはり暗殺計画に携わるボンヘッファーの姿を描かざるを得ないだろう。

ニューヨークのユニオン神学校。3列目右端がボンヘッファー
作品全体を通しては「ほとんど史実」である、というのが僕の感想だ。確かにある部分にフォーカスが当たりすぎていると言えばそうかもしれないが、徹底期に満遍なくボンヘッファーの思想と行動を汲み取りたいなら、やはり伝記の類を読み漁るしかない。
映画は可視的な映像を通して不可視的なメッセージを伝達するところに醍醐味がある。その意味でこの映画を通してボンヘッファーという人物の人柄や活動、また当時を生きる難しさなどは十二分に伝わってくる。
他にもウェルンツ氏はボンヘッファーが最初に逮捕されたのは暗殺計画ではなく、「ウーフェ作戦(Operation U-7)」というユダヤ人のスイス密入国計画に携わった罪であることも指摘し(これは映画でも描かれている)、あまり彼を「暗殺者」として表現しすぎてはならないと警告を促している。それは映画の内容についての批判と言うより、本来の「神学者ボンヘッファー」としての活動を曖昧にしてしまわないかという危惧であろう。
本連載の初回で言及したが「牧師が殺人?」という点にだけ注目するのではなく、ボンヘッファーの生涯全体を俯瞰することこそ、本当の意味でのボンヘッファー理解と現代への適応につながる。その意味でウェルンツ氏が指摘するよう、ある一部分だけを取り上げることはボンヘッファー像そのものを欠損しかねないというのは僕も同意する。ただしこれは本作品に限らずあらゆる著作や引用にも言えることだ。
ボンヘッファーは39年という生涯の中であらゆる著作や論文を残し、またそれらの言説は当時も今も神学界を刺激するものが多い。加えて「抵抗運動に参加し、最後は処刑された」という結末も読む人に強烈なインパクトを与えてきた。
それらはどの部分を切り取っても興味深いし議論の対象となるが、それと同時にボンヘッファーの言説に対する「誤用」や「誤解」というものもこれまで度々問題となってきた。彼を「抵抗者」という切り口だけで捉える場合、神学者、また牧会者としての活動を主としていたボンヘッファーにとっては不名誉な称号かもしれない。
また彼の「機械仕掛けの神」や「神の前で、神とともに、神なしで生きる」といった晩年のフレーズは戦後「解放の神学」などの現代神学が形成される基礎づけになったという見解もあるが、ボンヘッファー自身が目指していたのは新しい潮流を生み出すことではなく、ひたすらに「教会」理解を深めることであった(詳しくは連載第3回目)。
これらを踏まえ、ボンヘッファーという人物がそもそも今も議論の渦中にある存在だと把握しておくとよいかもしれない。もし彼の生涯の全体像を満遍なく把握したい方はエバーハルト・ベートゲの執筆した『ボンヘッファー伝』全4巻か、森平太『服従と抵抗への道 ボンヘッファーの生涯』(ともに新教出版社)を読まれることを薦めたい。
「暗殺者」という表現は誤り?
さて、映画の公開が発表されてからいくつかこんな意見も挙がっていた。それが「そもそもボンヘッファーを暗殺者と表現するのはいかがなのか」というもの。実はこれ、ボンヘッファーの背景を少し知っていると出てくる疑問でもある。
まず結論から言うと「ボンヘッファーは最初からヒトラーを暗殺するつもりであった訳ではなかった」ということだ。彼の抵抗運動には「段階」があった。
はじめ彼は1933年3月に布告された「ナチスへの全権付与法」や1935年9月の「ドイツ福音主義教会の保全に関する法律」など、政治勢力が教会領域へ侵入してくることに反対していた。ボンヘッファーにとってこれは最後まで抵抗活動の根本的な要素であり続けた。
しかし1938年にゲシュタポ(秘密国家警察)から「ベルリン滞在禁止令」がボンヘッファー個人に発令されたり、同年4月にすべての教会教職者がヒトラーに対する忠誠宣誓を行うことが義務付けられてからは状況が変わった。この年以降彼は急速的に国防軍部内の抵抗派の人々や、国外の理解者たちに接近していった。
1940年ごろから秘密裏に執筆が続けられた『倫理』において神学的な用語を用いながらヒトラーへの批判が度々展開されている。その中では例えば「独裁的な人間軽蔑者は…人間の心の卑劣な部分を利用する」などと記されており、当時のドイツを覆っていた「軽蔑」や「愚かさ」という空気感について彼は危機感を抱いていた。それは獄中にて残された「啓発する行為ではなく、解放する行為だけが愚かさを克服できる」という言葉からも読み取ることができる。こうして1930年代後半、いよいよボンヘッファーの抵抗運動は極めて実存的な香りを帯びることとなった。
1940年、義兄ハンス・フォン・ドナーニーらの協力を得て、密かにヒトラーへの反乱計画により政府を転覆しようと計画していた国防軍諜報部で勤務することとなったボンヘッファー。ちなみに諜報部とは国防軍内部に不穏な動きが無いか監視する役割を担っていたが、皮肉にもその部隊こそ反ヒトラーの拠点となっていた。
歴史家の宮田光雄は「この抵抗運動は、ヒトラーを─やむをえない場合には実力によってでも─排除して平和と公正な国家秩序を再建することを意図していました」と説明しているが、まさしくボンヘッファーやドナーニーが企図していたのは「車にひかれた犠牲者に包帯を巻くだけでなく、車そのものを停める」ことであった。
実行されなかった計画がほとんどであるが、例えば、ヒトラーを捕えた後に医師団に精神鑑定を受けさせ、合法的に病院へ収容すると同時に逮捕するというものがあった。このように何とかして最少の被害で事態を食い止めようとしていたのは事実だ。
しかし止まらぬヒトラーの支配と戦争の激化によって、抵抗活動はいよいよ最終的な選択を迫られることとなった。それが1944年7月20日の「ワルキューレ作戦」だ。これは当時予備軍司令官であったシュタウフェンベルク大佐の実行によるもので、彼が大本営(ナチス本部)に呼び出された際に時限爆弾を机に設置した。しかし実際は起爆のタイミングがズレたことでヒトラーは軽傷を負っただけですんだ。
さて、この知らせをボンヘッファーは「獄中」にて知った。というのも彼自身、先述の「ウーフェ作戦」に関与していることが発覚し、すでに1943年4月5日に逮捕されていた。つまりボンヘッファー自身が「暗殺」を実行したわけではなかった。しかし「暗殺の可能性も含んだ作戦」に関与していたのは間違いのない事実であった。
果たして彼は「暗殺者」だったのだろうか。どの切り口から捉えるかでその光景は変わるだろう。ボンヘッファーが「暗殺」についてどう捉えていたかは紙面の関係で別の機会に取り上げようと思う。あくまで本節では「逮捕」に至るまでの彼の行動履歴に限定している。
また、「映画の副題としてそれを掲げることはふさわしいのか」という疑問について。確かに書籍なり映画なり、誰かへの伝達を主たる目的とした作品ではどうしても「惹きつける」要素が必要となる。しかし諸要素だけに注目しすぎるというのもまた本質を見落とす可能性がある。最も、本作が語り伝えたいことは「ボンヘッファー」という人の生涯と信仰そのものだと僕は考えている。
今、映画『ボンヘッファー』を僕たちは観るべきか
それらを踏まえて、この映画は大いに観る価値があると僕は思っている。最後にその理由を二つ述べさせてほしい。
第一に、昨年のドイツ州議会選挙にてテューリンゲン州で戦後初のいわゆる極右政党と呼ばれる「ドイツのための選択肢(AfD)」が第一党となるなど─政策的な良し悪しを除いて、昨今各地で「移民排斥」や「民族主義」を掲げる政治主張が好まれる傾向にある。
政治の話をすると必ず「誰が右派か」「あなたは左派か」という議論に帰結するが(AfDについて言及したのは例示のためなのでご容赦願いたい)、まず党派のラベルではなく政治的状況─そしてその背後にある社会現象に注目すべきであろう。
「時代が求めたからヒトラーはヒトラーとなった」という言葉がある。なぜ1930〜40年代のドイツで、いわゆる独裁政権や差別主義というものが誕生及び拡大したのか、そしてその時代的背景はいかなるものであったのか、というのは知っておくべきだろう。第一次世界大戦の敗戦、ヴェルサイユ条約による領土喪失、ハイパーインフレーションなどの経済的不安定……。
またそれらに直面した人々の応答が結果的に何を生み出したかにも注目せねばならない。なぜなら今の種まきを刈り取るのは未来の子どもたちだからだ。
その意味で「過去」は「今」を生き、「未来」を造るためのエッセンスとなる。映画『ボンヘッファー』はそんな社会的現象を再考察する上で今の僕たちに必要な示唆を与えるだろう。
第二に、困難な時代において「個人」は何を成すべきかを見極める必要がある。ヴァイマル共和国(1918〜1933年)と呼ばれる時代のドイツのキリスト教界では、①国粋的キリスト教(ユダヤ人排斥とキリスト教のゲルマン化を支持)が10%未満、②保守的ナショナリズム(穏健右派)が約70%、③自由民主主義(中道政党を支持)が約10%、④宗教者会主義(いわゆる最左翼)が数%、の割合で存在したと言われている。
しかし1933年1月30日、ヒトラーの首相就任以降これらのバランスは一気に崩壊することとなる。いわゆる中道や穏健と呼ばれていた人たちは社会の変化とともに、徐々にヒトラーを(ある意味で無批判的に)歓迎するようになった。
これは政治ではなく人間を問うている。つまり時代の困窮や行き詰まりにおいて、僕たちは早急に事態を解消してくれそうな指導者や魅力的なフレーズに心踊らされるのだ。
人間関係とは高度な思想や秩序ではなく、ほとんどが好みや関心といった感情の根源的な部分に基礎付けられている。また人間は一人で生きているのではなく学校、家庭、SNSといったそれぞれの空間で関係性を築き、結果的に社会という一つの大きな集団を形成する。その意味で僕たちはある種の「共同体幻想」(吉本隆明)に生きていると言ってもいいだろう。
しかしボンヘッファーという人は少し異なった。彼はヒトラーが首相に就任した2日後に「若き世代における指導者概念の変遷」という神学・倫理と政治状況に関するラジオ講演を行い、ナチズムを批判した。そしてその放送は途中で中断された。

ナチス式敬礼を行うアドルフ・ヒトラー
英雄的な響きに聞こえるかもしれないし、実際ボンヘッファーも人間である以上、人間関係の幻想がなかったとは言い切れない。しかし彼の「時代の流れに飲み込まれない」という言動の根源には、やはりそれを超える「信仰」があったと僕は思っている。
「信仰」はその最終的な拠り所を神に見出す。ある人にとっては思考停止のように見えるし、別の人にとっては神秘主義のように感じるかもしれない。しかし聖書によれば人間は神によって造られ、この世界を管理するよう求められている。ゆえに人間や社会を語る上でキリスト者は聖書というレンズを通して観察する。
そしてそれらの正当性や合理性を検証し、言語化する営みが「神学」である。ボンヘッファーの言動が彼の抱いていた信仰の理解に基づいているならば、やはり「活動家」や「政治運動者」ではなく「神学者」と表現することが好ましいだろう。
「バルメン宣言」という信仰告白の文書がある。これはボンヘッファーも参加していた「告白教会」というナチスへの抵抗運動によって生まれた教会共同体から発表された「私たちは何を信じているのか」というテーゼであり、信仰の根源的な部分を探っている。
その第一項には「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべて神の唯一の御言葉である」と記されている。ここに信仰の真髄がある。
僕たちは常に誰かの言葉に聞き、生きている。これに平時か緊急時かは関係ない。また宗教の有無も関係がない。親の言葉か社会の慣習かインフルエンサーの発信か、人間は誰しもその言動において何らかの指針を抱えて今日も生きている。
そしてボンヘッファーは、社会やヒトラーではなく聖書の言葉に聞き、熱狂的な指導者支持に溺れる目の前の空間に「否」を叩きつけた。それらがもたらした結果については、今読者一人ひとりに思い巡らす機会が与えられているのだろう。
以上の「社会的現象」と「個人」という二つの観点から、今僕はこの時代に映画『ボンヘッファー』を観ることへ大きな価値を見出している。
おわりに
ここまで書くと、キリスト教の擁護や美化を目論んでいるのかと思われても仕方がない。しかしキリスト教はその歴史上、十字軍や植民地支配など数えきれないほどの虐殺行為を犯してきたことも事実だ。今回は歴史的な意味での「キリスト教」全体ではなく、個別的な「ボンヘッファーの信仰」について焦点を当てていることをご容赦いただきたい。
またナチズムとキリスト教との精神構造における比較としてエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(創元社、1952年)は取り上げるべきだったが紙面の関係で割愛した。その他、日本人の行動様式の例として山本七平『空気の研究』(文藝春秋、2018年)も紹介したかったが2カ月前の引っ越しで紛失していたことが判明し、今必死で探している。
少し長くなったが映画『ボンヘッファー』に寄せられている声と、それに対する僕なりの応答を述べさせてもらった。「百聞は一見にしかず」といえば無責任になるかもしれないが、その作品的価値はぜひ、あなたの目で確かめてもらいたい。
そして、ボンヘッファーとはどのような人物であったのか。来る日にあなたの心で感じてほしい。
【参考文献】
- 制作会社の背景
・Newsweek「アメリカでヒットした『サウンド・オブ・ドリーム』にはQアノン的な品性が滲む」(ニューズウィーク日本版、森達也、2024年)
・Charles Bramesco “Sound of Freedom : the QAnon-adjacent thriller seducing America“ (The Guardian, 2023)
- 映画『ボンヘッファー』はナショナリズムを歓迎している?
・キリスト新聞「『ボンヘッファーと同じ境遇』とトランプ支持者:国際ボンヘッファー協会と親族が非難」(キリスト新聞、2024年)
・キリスト新聞「キリスト教書賞に『ボンフェッファー』米福音派出版協」(キリスト新聞、2011年)
・Eric Metaxas “Bonhoeffer : Pastor, Martyr, Prophet, Spy“ (Zondervan, 2011)
・John Fea “From the Manhattan Elite to MAGA Populism“ (Christianity Today, 2025)
- 「拡大解釈」という指摘について
・Myles Werntz “‘Bonhoeffer’ Bears Little Resemblance to Reality“ (Christianity Today, 2025)
・Jeffrey M. Anderson “Parents’ Guide to Bonhoeffer : Pastor. Spy. Assassin“ (Common Sense Media, 2024)
- 「暗殺者」という表現は誤り?
・E.ベートゲ、日本ボンヘッファー研究会編訳『ボンヘッファーの世界─その本質と展開』(新教出版社、1981年)
・村上伸『ボンヘッファー』(清水書院、2014年)
・宮田光雄『ボンヘッファー:反ナチ抵抗者の生涯と思想』(岩波書店、2019年)
- 今、映画『ボンヘッファー』を僕たちは観るべきか
・河島幸夫『戦争と教会─ナチズムとキリスト教』(いのちのことば社、2015年)
・吉本隆明『共同体幻想論』(KADOKAWA、2020年)
・朝岡勝『「バルメン宣言」を読む─告白に生きる信仰』(いのちのことば社、2018年)
【推薦図書】
・石川明人『キリスト教と戦争─「愛と平和」を説きつつ戦う理論』(中公新書、2016年)
「原爆投下の前にも礼拝が行われていた」「キリスト教が平和主義なのか、社会の平和主義にそってキリスト教も形を変えてきたのか」。普段見逃されがちなキリスト教の抱える平和への矛盾や葛藤を直視する本書では、人間の剥き出しの実存が描かれている。同著者の『戦争は人間的な営みである─戦争文化試論』(並木書房、2012年)も併せて読むことをおすすめする。
【写真出典】
https://www.angel.com/blog/bonhoeffer/posts/where-to-watch-bonhoeffer-pastor-spy-assassin
https://x.com/ericmetaxas/status/1796614156730126722?s=12
https://www.dietrich-bonhoeffer.net/bildarchiv/seminar-in-new-york/
https://cinemagavia.es/bonhoeffer-el-espia-pelicula-critica-estreno-cine/
https://jp.reuters.com/world/europe/MB55LVHXGJII3HM65PXFHLIINY-2025-05-02/
福島慎太郎
ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝の運営、幼稚園でのチャプレンなどを務める。連載「14歳からのボンヘッファー」「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。
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