【Web連載】ボンヘッファーの生涯(5) ベルリンでの学生生活 福島慎太郎 2025年8月27日

ドイツの首都ベルリンはミュンヘンやフランクフルトといった大都市に比べると、アクセスの不便さもあって観光地としての注目度は常に二番手だ。それでも、ブランデンブルグ門やベルリン大聖堂は人生で一度くらい訪れても損はないと思う。
僕のベルリンでの思い出といえば――。
2019年夏、ベルリン大聖堂の前にいた着ぐるみから写真をせがまれ、引きつりながらツーショットを撮った瞬間「10ユーロ(約1700円)払え」と突然胸ぐらを掴まれたことがある。これは素人の観光客がよく騙される手法だが、まさか渡独15回目でこれに遭遇するとは。人生とは常に学びである(なお、走って逃げた)。
1924年、ベルリンの大学生活
さて、時代は遡って1924年。19歳のディートリヒ・ボンヘッファーはベルリン大学に移った。当時の彼は、神学的(学問的)に「教会」を捉えることには関心があったが、実践的な面や牧師として取り組む意識はそれほど高くなかったと言われている。
当時のベルリンは音楽と学問の都市。フィルハーモニー、声楽研究所、舞台芸術は国内屈指で、学問でも数多くの研究者が滞在していた。実際、ディートリヒと同時期、兄カール・フリードリヒはベルリンで物理学をアルベルト・アインシュタインから学んでいた。
ちなみに、先ほど紹介したブランデンブルグ門から徒歩3分の図書館にはアインシュタインの大きな石板が入り口に飾られており、その手前には「カフェ・アインシュタイン」なるものがある。
ベルリン大学のスター教授陣
ボンヘッファーが学んだころのベルリン大学神学部といえば教会史・教理史の巨匠アドルフ・フォン・ハルナック、「ルター・ルネサンス」の指導者カール・ホル、新約聖書学において言語学的研究の先駆けとなったアドルフ・ダイスマン、組織神学の大家ラインホルド・ゼーベルクらが在籍していた。
知っている人ならよだれが止まらない講師陣、知らない人はひとまずあらゆるゲームの主人公が一斉に集まっている様子をイメージしていてほしい(スマブラのキャラ選択画面みたいな)。ひと言でいえばベルリンほど高レベルで、そして神学をするに最適な環境はなかった。
ハルナックとの出会い
在学中、彼が最も親しく、また学問的にも影響を受けたのはアドルフ・フォン・ハルナックであった。彼は教会史の分野で世界的に知られ、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも交流があった人物であった。
そんなハルナックの近所に住んでいたボンヘッファーは、時々一緒の汽車へ乗り合わせたり、ハルナックの自宅で行われていた特別ゼミにも参加し、原始キリスト教や初期キリスト教の教会史について学んでいた。ちなみに、このゼミナールで最後の学生代表を務めたのはボンヘッファーだった。
当時から彼の才能を見込んでいたハルナックは、自身の後継者となるよう勧めていたがそれは叶わなかった。それでも1930年、80歳でこの世を去ったハルナックの葬儀では弟子を代表してボンヘッファーがスピーチを担当した。その際には「真理はただ自由からのみ生まれる、ということが彼に接してみて我々には明らかになりました」と語るなどその影響はかなり大きかったと考えられる。
ゼーベルクとの距離感
次にボンヘッファーに影響を与えた人物といえば、ラインホルト・ゼーベルクである。と言ってもゼーベルクの場合、先のハルナックとは違いかなりボンヘッファーと微妙な距離感にあった。
まず、成績優秀であったボンヘッファーもゼーベルクの講義だけは落第寸前。他にもゼーベルクの著作に記されていた「ルターが聖書と同様に宗教的先験をも、真理の証人また規準(Kannon)として適用した」という文言に対し、二重線を引いてから「否! そうではなく聖書の主を。また、教会という道(via)、すなわち説教を」とコメントするなど、かなり批判的な様子も見受けられた。もちろんこれは人間関係の不和などではなく神学的相違点によるものだが。
しかし、最終的にボンヘッファーは彼のもとで博士論文を執筆した。その姿も彼らしいというか、見解が異なるゆえに排除するのではなく、異なるからこそさまざまな見識を吸収しようとした。その詳細は専門書に譲るが、例えば「教会として存在するキリスト」という概念や「社会性(集団を形成して生活しようとする人間の傾向)」を神学的に捉えるなど、後のボンヘッファー神学を構成するいくつかの要素はここで培われた。ひと言でいえば、「教会」を「社会」との関わりの中でどのように理解すればよいのかというものだ。そして彼のもとで記された博士論文が、『聖徒の交わり』という教会論をテーマにしたものである。
広がる不穏感
なお先ほど両者の微妙な距離感は人間関係の不和ではないと言ったが、これは当時のことである。後年、ヒトラーが台頭し、それに反対する告白教会が設立された際、ゼーベルクは「告白教会を一つの不幸」と証言していたと神学者パウル・ティリッヒの日記から判明しており、実際、彼はナチス政権を支持するなど後にボンヘッファーとは完全な絶縁状態となった。
そして出会う、カール・バルト
波乱万丈な、しかし着実に「教会」をどう捉えるかに情熱を注いでいたボンヘッファー。そしてこの頃、もう一つの決定的な出会いを果たすこととなる。それがカール・バルトである。彼の弁証法神学と呼ばれる立場は後のボンヘッファーに多大な影響を与えた。これについては次々回に触れようと思う。そして、ボンヘッファーの神学――とりわけその教会論を探るため、次回は博士論文『聖徒の交わり』について触れたいと思っている。
博物館での再会
今回は教科書的な説明が多く、少し疲れた人もいるかもしれない。そこで最後に、ベルリンのとっておきの観光スポットを紹介したいと思う(今回は観光地紹介が多めだね)。
観光地の外れに立派な国防省がそびえ立っている。その隣を見ると「ドイツ抵抗博物館」という博物館がひっそりと身構えている。ぜひ、ここに足を運んでみてほしい(ちなみに日本語のガイドブックではほとんど掲載されていない)。
入場は無料。中に入るとナチスの抵抗者に関する歴史が教科書10冊分くらい展示されていて、写真が豊富なのでドイツ語が読めなくてもある程度内容は把握できるだろう。
また、映像資料ではナチス式敬礼を行う無数の少年少女や焼け野原になったベルリンで泣き叫ぶ軍人の姿など、普段目にする機会がない歴史の裂け目を目撃することができる。
展示の中には「宗教者」というコーナーがある。ちょうど偽ミッキーから逃げ切った後、まじまじとその展示を見ていたのだが、その中で一人の人の名前を見つけた。
「ディートリヒ・ボンヘッファー」
この時の衝撃は今でも忘れられない。たった一人の牧師の生涯が、これほどまで社会に大きな影響を与えていたのかと。そして「過去を知る」ことは「今をどう生きればよいか」という指針を見出すことにつながるのだと学ぶ。
改めて僕たちはボンヘッファーから学び、ボンヘッファーを超えた先で、今日の教会と社会を鋭く眼差す必要があるだろう。
【参考文献】
・森 平太『服従と抵抗への道─ボンヘッファーの生涯』(新教出版社、1969年)
・村上 伸『ボンヘッファー』(清水書院、2014年)
・エヴァーハルト・ベートゲ、村上伸訳『ボンヘッファー伝Ⅰ』(新教出版社、1973年)
*冒頭写真=ベルリン大聖堂で遭遇した偽ミッキーとのツーショット。送り出してくれた家族は本稿をもって初めてこのことを知ります。
福島慎太郎
ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝の運営、幼稚園でのチャプレンなどを務める。連載「14歳からのボンヘッファー」「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。