【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 居場所づくり 村田光希 2025年9月21日

 前回、前々回の記事において、働きを目的としてつながる関係性ではなく、愛を動機にしてつながる関係性の大切さを考えてきました。何ができてもできなくても、存在を喜び、共にいることを喜ぶことは、愛の本質だと思います。それを肌で感じられる場所を、人は居場所と思うのではないでしょうか。神の家族としての本当の居場所づくり、それが地方教会における私たちの挑戦です。

 しかし、教会において、その居場所を最も体験しづらいのが牧会者なのではないかとも感じています。あえて信徒という言葉を使うなら、牧会者は絶えず信徒の評価にとらわれる危険があります。愛ある助言もあれば、ただの自己中心的な文句もあるでしょう。真っ先に批判の矛先が向きやすいのは牧会者ということもあるかもしれません。これは信徒との葛藤というより、自分の信仰の葛藤です。イエスではなく、荒れ狂う嵐に目をとめるなら、ペテロのようにすぐ沈みそうになります。

 そこで、私が問われていることは、安心できる居場所を願う者として、まず自分が安心できているのだろうかということです。表面的には取り繕えたとしても、本当のところは、すぐにバレます。「この人は、口では愛を説いているけれど、実際のところ、教会でそれを味わっているだろうか」「自由と喜びを語っているけれど、それを体験しているだろうか」「教会が居場所だというけれど、本当にそう感じているのだろうか」と。子どもは、親の姿を見て育つと言われますが、私たちが語る言葉以上に、実際の生き様から伝わることの方が多いでしょう。ここ数年の牧会の中で、語ることばと実際のギャップの大きさが、不信感と失望につながるのだと実感しています。

 では、どうすればいいのか。分かりません。葛藤中です。でも、かっこうつけずに、正直になっていきたいと願っています。ただ正解を押し付けられて行っていくミニストリーは、次第にやる気がなくなってきます。神は私たちに自由意志を与えました。それは、その前提においてでしか、愛が生まれないからです。心から愛と喜びをもって従うことが神の願いだと思います。逆に、表面的に繕った礼拝や奉仕を、神は忌み嫌われるとまで言われました。

 自分が嫌なこと、または、喜びがあることは何か。それはなぜなのか。神の前で正直になって初めて、自分が自発的に、心底やりたいこと、神のためにささげたいこと、自分を突き動かすものが分かってくるのではないでしょうか。

 まず神との関係において、「神よ。私を探り、私の心を知ってください」と、正直に心を開いているかが問われます。み言葉に照らされて、今の、そのままの「私」がどのような私なのかを、み手の中で知らされていく。そして、神に対して心開く時、人に対しても心開きやすい者へと変えられていくように思います。

 先週のことですが、教会の方が「弱さや葛藤をさらけ出してくれるから、安心して話せます」と言ってくれました。こちらが心を開いた分だけ、相手も心を開いてくれることを実感します。人間同士なので、全員と仲良く楽しく、とはいかないでしょう。それでも、自分自身が、傷つくことを恐れて心開くことを諦めては、居場所は作れないし、自分が誰かに頼ることを諦めては、信頼関係は築けないのだと思います。居場所づくりのためのさまざまなカリキュラムや手段はあるでしょう。でも、まずは、自分が変えられることが、挑戦の第一歩です。

 むらた・こうき ハーベスト聖書塾、北海道聖書学院、Christ For The Nations Institute Worship Major 卒業。現在、帯広栄光キリスト教会にて牧会。ピアノ、ドラム講師、ラッパー牧師LIGHT HOPEとしても活動中。

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