日本福音同盟社会委 戦後80年で津村俊夫氏が講演 大嘗祭の宗教性を考察 2025年10月8日

 日本福音同盟社会委員会の主催による戦後80年連続企画の第2回となる講演会「戦後80年 二度の大嘗祭を経た日本における宣教」が10月3日、オンラインで開催された。講師は津村俊夫氏(聖書神学舎・聖書学研究所所長)。

 津村氏は冒頭、「私たちには『知る』責任と義務があり、時に『知らなかった』では済まされないこともある」と述べ、「右傾化」か「左傾化」かと拙速に二分するのではなく、例えば第二次世界大戦下に注目するのであれば日本を「被害者」としてだけ取り上げるのではなく、同時に「加害者」としての側面を直視する勇気が必要であると語った。

 また世界各地で発生している紛争などについても「加害意識の欠如」こそ、それらが長期化・正当化される要因の一つであり、その都度人間には「自己弁明」というある種の欺瞞が含まれていることも指摘した。

 これらは戦後80年を迎えるにあたって論じられた日本の戦争責任とその後の社会情勢に関する言及であるが、同時に今回はそのような日本の国体を構成してきた重要な要素の一つである「天皇制」とその背景にある「大嘗祭」について盛んに論じられた。

 本講演の中心主題である「天皇制」について、教会の活動を回想した時に挙げられるのは、「大嘗祭」への取り組み。これは天皇が天照大神と一体になる(天皇が天照大神の子孫として神々からの加護を受け取り、神政の担い手となる)儀礼であり、天皇の代替わり際にして執り行われる。

 同氏によれば昭和から平成への移り変わりの際は戦争問題の課題などもあり、各教団・教派から声明文などが発表されたが、令和への移り変わりの際はそれらの問題意識も徐々に薄まったのかほとんど見受けられなかったという。

 大嘗祭については政教分離の原則(日本国憲法第20条)の観点からたびたび議論の対象となっているが、これまでの皇位継承に伴う儀礼に関する判例では「社会的儀礼」や「慣習・文化的行事」との観点から概ね合憲と判断されている。実際、それらを支持する言説でも「文化」であると論じられる傾向にある。

 他方、津村氏は大嘗祭が「聖婚儀礼」の性質を有する祭祀である限り、この問題については論じ続ける必要があると主張。そもそも大嘗祭とは天皇が新穀を天照大神にささげ、同時に自らも食す形で「共食」をモティーフとした儀礼であるが、それらが男性原理(天皇)と女性原理(天照大神)との間で交わされること(象徴的結合)や、儀礼そのものが「宵の儀」や「暁の儀」など日没後から夜明けにかけ、殿内の「御床」と呼ばれる空間で執り行われ、ある種の生殖的象徴も想起させるなど聖婚の象徴的構造を有する「ご一体となる儀礼」が展開されていると指摘した。

 また大嘗祭において、天皇は天照大神の霊を受け、「神の仲間入りをする」とされている。この過程について、古代オリエントやカナン地方に見られる王権儀礼との類似点が確認されると津村氏。特に、古代カナン(現在のシリア・パレスチナ地域)では、王が豊穣神や太陽神と結合する「聖婚儀礼」を通して神格化される伝統が存在した。同氏は、大嘗祭における一連の儀礼を通して、カナンの王が神霊と交わる宗教儀礼と重ね合わせて、天皇による「憑霊」(神霊が降臨する現象)が発生しており、本儀礼は単なる農耕儀礼ではなく、古代的な「王の神聖化儀礼」の系譜を今日まで伝える性質も有していると述べた。

 これらを踏まえ、大嘗祭を含む文脈の中でたびたび取り上げられる「天皇の宗教性」について、津村氏は実際のところ「宗教としての天皇制」として考察する方が妥当だとし、それはとりもなおさず「天皇制」そのものが上述の通り儀礼等を通じた「宗教性」によって維持されてきた背景を有しているからと論じた。その他、「天皇個人への尊敬と宗教としての天皇制」を識別することも、本議論の考察の鍵となるとのこと。

 最後に、聖書の文脈と天皇制を比較する形で「大嘗祭とは人間が神になる要素を含んだ儀式であるが、聖書に描かれているキリストの受肉は神が人になるという出来事」であると述べ、聖書に生きる者はこの確信に根差した上で「天皇制」や「文化」と呼ばれる現象を眼差す必要があると訴えた上で総括とした。

(福島慎太郎)

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