【雑誌紹介】 絶望に呑み込まれないように 『福音宣教』10月号

 フランシスコ会士・濱田欧太郎による不定期連載「世のメタファーを読む」。今回のテーマは「森の護り手たちと森という護り手」。

 「共同体を護る存在としてここで取り上げたいのは内田樹(思想家)が提示したキャッチャーとセンチネルという存在である」

 「キャッチャーやセンチネルとは、世界を見守り、邪悪なものが接近してきた時にそれを察知し、人間的な世界が混沌に呑み込まれないように、それを押し返す存在のことである。もしくは邪悪なものに取り込まれ深淵の縁までさまよい出た者を連れ戻そうとする存在のことである。個人的には前者をセンチネルと呼び、後者をキャッチャーと呼びたいと思う」

 「二〇年以上も前のことである。その年の一二月二三日の夕方、髪を真っ赤に染めダブついたアーミールックで身をかためた二〇歳前後の男の子が教会を訪ねてきた。見たことのない顔だったが『祈らせてください』と言うので聖堂に案内した。その後夕食を済ませ、玄関を閉める前に聖堂に入ると先の男の子が暗い聖堂の中で一人すすり泣いていた。……何があったのと訊くと、『友だちに裏切られた』と答えた。大切な友だちだったのかと尋ねると黙ってうなずき、その後しばらくの間沈黙が続いた。やがて彼は『すみませんでした』と謝りながら立ち上がった。玄関に向かうまでの間、何度か『すみませんでした』と頭を下げ、クリスマスを迎えようとしていた夜の長野の町へと出ていった」

 「彼が体験した出来事がどんなことだったのかは分からない。深い悲しみに囚われた彼は、聖堂の中に身を置いて、絶望に呑み込まれないように自分自身を支えようとしたのだと思う。傷を負った動物が夜の森に入り込み、暗闇の中に身を横たえ、その傷が癒えるのを待つように」

 「教会が共同体として存在するためにキャッチャーやセンチネルが必要とされると考える。けれどもそれだけではなく聖堂の空間そのものが、誰にも知られないところで、キャッチャーやセンチネルとしての役割を果たすことがあるのだ。夜の聖堂の中でひとり泣いていた彼のことを思い出してそう思う。キリスト教は衰退期に入り教会の弱体化が進み、世間にはその存在が忘れられつつある。けれども、世界の片隅でキャッチャーやセンチネルとして佇むこともできるだろう。もうひとつ言えば、教会がキャッチャーやセンチネルとして存在している間、教会は自らを護ろうとする者を自らの内に生み出すことができるのではないだろうか。たいした根拠もないのだけれど、そんなことを思う」

【660円(本体600円+税)】
【オリエンス宗教研究所】

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