【地方からの挑戦~コレカラの信徒への手紙】 先行く世界と、遅効性の福音 富山希望 2025年10月21日

地方にいると、先行く世界の動きに置いていかれる思いがいたします。今の日本は中央に多くのものが集まり、地方にいると余計にそう感じます。インターネットが急速に発達し、若者たちはSNSやショート動画に夢中になり、自分の生きる世界の大半を、そのような場所で過ごしているのではと思います。世界はもっと便利に、もっと早く結果を出し、もっとたくさんの情報を吸収し、もっと迅速に豊かになるべきだと、私たちを追い立てていくようです。
私どもの教会には、キリスト教主義学校から中高生が学校の課題でやってきます。ある時、高校生のお嬢さんに「将来の夢は?」と尋ねたのです。そうしたら返ってきた言葉が「老後に備えて、2千万円貯めること」だと言いました。嘘ではありません。本当に、そう返ってきました。私は衝撃を受けました。これは若い世代に対し、今の世界が「希望」を与えられていないということを、実感した出来事でした。
沈鬱な気持ちになった反面、どこか納得してしまいました。それだけ、私自身も、将来の世界に対する期待が持てる気がしなかったからです。キリスト教会の現状(特に数字)を見ていると、そのような思いがよぎるからです。数字の魔力が絶対的なものに思え、数字を追い求めたくなる気持ちはなんとなく分かります。

でも、考えました。なんで数字を求めるのだろうと。それは「安心したい」からだと思います。変わらない絶対的な安心感を得たい。絶対的な承認を得たい。先行く世界は、数字に支配されているように思います。
それに対して、福音は「遅効性」です。先に先にと急ぐ現代社会とは真逆です。芽吹くのに時間がかかり、なかなか即効で効いてくれません。福音の効果があまりにも遅く出るので、私たちはいつも「いつになったら」と戸惑い、焦り、やきもきします。
しかし、福音の種がまかれていれば、やがては「芽」が出て、実を結ぶ時が来ると信じています。効きが遅いので待たされますが、「涙とともに撒く種は、喜びとともに刈り入れられる」時が来ます。
地方の教会の使命は、先行く世界に振り回されないことだと思います。祈りながら福音をまき、恐れず従うことだと思います。先行く世界は勢いよく進むので、周囲のものを振り回し、振り落としていきます。そして言います。「数を生み出すことのできないものは、価値のないもの」だと。でもその声に耳を傾けて、消沈するのは、失望するのは、見捨てられたと嘆き、ついに捨ててしまうことは、本当に主の望まれることだろうかと思うのです。
地方の教会にとって、今は忍耐を要する時代と言えると思います。ですがどんな時代であっても、信仰を、希望を捨てません。神の愛が私たちを捨てることはないからです。「たとえ、遅くなっても待ち望め。/それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。/その心は正しくない。/しかし、正しき人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:3~4)。

とみやま・のぞみ 1989年埼玉生まれ。牧師家庭に生まれ育ち、小学生の時、単立・川口キリスト教会にて受洗。神学校卒業後、2年の伝道師期間の後、日本基督教団紀伊長島教会(三重)を経て、北九州復興教会曽根集会所(福岡)で牧会に従事。大好きな家族は、ウェルッシュ・コーギーのネタロー。
UnsplashのValent Lauが撮影した写真















