【Web連載】ボンヘッファーの生涯(8) 平和へのまなざし(前編)キリスト教と戦争 福島慎太郎 2025年11月3日

キリスト教と戦争

 宗教学者の石川明人氏は、第二次世界大戦後のキリスト教と平和の関係について、「キリスト教が本来的に平和主義というより、社会の平和志向に順応しているのではないか」(要約)と指摘している。この見解は、戦後の平和的キリスト教が信仰から生まれたのか、それとも時代に適応した結果なのかという問いを含む。

 実際、1948年の世界教会協議会(WCC)第1回総会では、「戦争は神の御心に反する」と公式に宣言された。これは主要な教派による初めての国際的合意であり、二度の世界大戦を経験した教会の深い反省を示すものだった。

 ただし、その背景には、敗戦国と戦勝国のあいだにある神学的な葛藤も存在していた。戦後の平和主義は、必ずしも純粋な信仰の確信だけでなく、社会の秩序や平和を重んじる価値観に合わせた側面もあったと言える。

原爆の投下前にも祈りは捧げられた

 歴史を振り返れば、世界史とは実質「キリスト教紛争史」と呼べるほど、各教派があらゆる場所で争いを繰り広げている。僕自身まだ教会に行ったことがない高校生の頃、社会の授業を受けながら「危険な宗教だなぁ」といぶかしんでいた。

 十字軍やドイツ農民戦争は聞いたことがあるかもしれない。他にも例を挙げれば、アメリカ軍は原爆投下の際に礼拝を行い、従軍チャプレンのウィリアム・ダウニーは「全能の神よ、どうか我らを、戦争を速やかに終結させる御心の道具とならせたまえ」と祈りをささげた。果たして神はそれらの光景をどう受け止めたのだろうか?

「正しい戦争」を提唱したアウグスティヌス

 今日の連載ではキリスト教と平和の関係性について、少し時代をさかのぼって振り返りたいと思っている。

 まず古代のキリスト教会では、いかなる形の暴力や戦争も認めなかった。初期の教父たち――例えばテルトゥリアヌスやオリゲネス――は、剣を取ることとキリストへの従順は両立しないと考え、兵役拒否を信仰の証しとみなした。


 しかし、4世紀にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認すると状況は一変する。教会は国家権力と結びつき、迫害される側から秩序を守る側へと変わった。その転換の中で、ヒッポの司教アウグスティヌスは「正しい戦争(bellum iustum)」の理論を打ち立てる。彼にとって戦争は悲劇であったが、同時に愛と正義の秩序(ordo amoris)を守るために、限定的な暴力は許されると考えた。すなわち、目的が正義で、正当な権威の下に行われる戦いは「愛の行為」になりうるという逆説である。

ルターとツヴィングリ――暴力を神が許す時?

 この思想は、後の西欧キリスト教にも大きな影響を与えた。そして国家秩序と信仰はしばしば混同され、暴力が「秩序維持」や「異端の矯正」として正当化されるようになった。

 宗教改革期のマルティン・ルターもこの流れの中にいる。彼は「二王国論」において、神の支配を〝霊的支配〟(教会)と〝世俗的支配〟(国家)に区別し、人間社会には罪と悪が避けがたく存在すると考えた。そのため、秩序を守るための剣の使用を認めたのである。

 実際、ドイツ農民戦争では当初、農民の訴えに理解を示していたルターも、暴動の拡大後には「殺し、刺し、絞めよ」と支配者に呼びかけ、武力鎮圧を容認した。結果として約10万人が犠牲になった。彼にとってそれは「暴徒の鎮圧」であり、神が立てた秩序を守るための義務だった。

 同じ頃、スイスで活動した司祭のフルドリヒ・ツヴィングリは、信仰を言葉だけでなく行動で証しすることにも重きを置いた。それはしばしば戦場とも結びつき、彼は「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイによる福音書10章28節)という言葉を、神の真理のために命を懸ける覚悟として受け止めた。裏を返せばそれは「自分が殺されること」も「敵を殺すこと」にも、ためらう理由がなかったことを意味する。

 最期にツヴィングリは従軍チャプレンとしてカッペルの戦いに赴き、戦死した。彼にとって、敵との戦いは福音と信仰を守るための「正しい戦い」であった。

 こうしてアウグスティヌス以来の「正戦」論は、信仰と暴力の関係に複雑な影を落とす。信仰の名の下に剣を取ること――それは神への忠誠か、それとも神の正義の誤用か。この問いは、のちにアナバプティストやボンヘッファーといった非暴力の神学者たちへと受け継がれていく。

ドイツ農民戦争

アナバプティストの非暴力主義

 日本語で「再洗礼派」と呼ばれるこの教派は、1525年にチューリヒで誕生した。アナバプティストたちは道徳改革を強調し、聖書の日常的実践を重要視した。この結果、発生したのが「山上の説教」(マタイによる福音書5〜7章)などに見られるイエスの言葉を「絶対倫理」として解釈する「選択と集中」の信仰的態度であった。

 例えば「誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい」(マタイによる福音書5章39節)というイエスの言葉も、ルターは「二王国論」に基づき、個人の信仰倫理としては受け入れたが、国家秩序の維持には「世俗的義務」の別の正義が必要と考え、共同体レベルでは直接適用しなかった。他方、アナバプティストたちは、少なくとも主流派の多くが、この教えをいかなる状況においても共同体規範として遵守し、非暴力と無抵抗を原則として貫いた。

 このような信仰の姿勢は、当時の主流教派から「急進的」とみなされ、異端視されていた。実際、アナバプティストという呼称も、迫害側が名付けた蔑称に由来している。

 彼らは「逃れの神学(Theology of Flight)」を掲げていた。これは暴力的抵抗ではなく、迫害者からの戦略的な逃避を通して信仰を守ることを選ぶ立場であり、逃避は単なる受動ではなく、信仰的義務と生存戦略を兼ねた積極的判断でもあった。

 1660年に初版が出された『殉教者の鏡』という書物には、初期のアナバプティストたちによる非暴力の実践と殉教の記録が収集されている。その中の一つに「敵を救った殉教者」の物語が記されている。これは迫害から逃げるアナバプティストが湖の薄氷に落ちる自らの追っ手を助け、その後彼に捕えられ、処刑されるという内容である。

 このように、ひと口に「平和」といっても、その解釈と実践は時代によって多様である。そしてボンヘッファーもまた、その歴史的流れの中で独自の「平和理解」を模索した神学者の一人であった。

『殉教者の鏡』より

ボンヘッファーの平和思想

 ボンヘッファーはマハトマ・ガンディーに深く傾倒していた。1930年、24歳の頃、ニューヨークのユニオン神学校に留学している時代に、当時ガンディーが展開していた運動に共鳴し、「非暴力」に関心を示した。実際、1934年には神学者のラインホルド・ニーバーらの手助けもあって個人的に出会う機会も用意されていたが、前年にヒトラーが首相に就任するなど、時代がそれを許さなかった。

 結論を先に述べる。ボンヘッファーはその後1930年代後半から40年代前半に執筆した『倫理』においてクリスチャンが社会的責任を担うことの重要性を説き、最終的に諜報部へと潜入することとなった。これを「転換」と捉えるか、あるいは「一貫した流れ」と捉えるかは研究者によっても意見が分かれる。

 いずれ連載においても取り扱うが、ひとまずここで言えることは「ボンヘッファーが変化した」と論じる前に、まず「社会が変化した」ことを僕たちは認識すべきであろう。そしてボンヘッファーは、変わりゆく社会の中で、絶えず教会と信仰者は責任を果たす機会と義務が与えられていると〝一貫〟して説いていた。

 そんな彼が活動の初期(1932年ごろ)、「平和」について言及した「世界連盟の運動の神学的基礎づけへの試み」という講演の記録が残されている。次号を後編として、その記録からボンヘッファーの平和理解の「初穂」について探ってみたいと思う。

(つづく)

【参考文献】

・石川明人『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理』(中公新書、2016年)
・踊共二『非暴力主義の誕生 武器を捨てた宗教改革』(岩波新書、2025年)
・フスト・ゴンザレス、石田学他訳『キリスト教史(上・下巻)』(新教出版社)
・越川弘英『キリスト教史の学び(上・下巻)』(キリスト新聞社)
・Jackson, D.(1997). On fire for Christ: Stories of Anabaptist martyrs. Herald Press.
・Anabaptist Community Bible.(2023). Study notes on the Holy Scriptures. Herald Press.
・Volf, M.(2005). Free of Charge: Giving and Forgiving in a Culture Stripped of Grace. Grand Rapids, MI: Zondervan.

終わりの覚書――キリスト教は「平和」をつくることができるか?

 アウグスティヌスからツヴィングリに至るまでの「キリスト教」と「平和」の歩みを読んで、どこかに疑問や不快感を覚えた読者もいるだろうか? しかし、その感情こそ、今の時代に教会が存在しているということの証なのかもしれない。

 日本におけるキリスト教は少数派かもしれないが、全体を見渡せば「世界宗教」と呼ばれるほどの規模であり、もはや迫害を受ける対象でもない。むしろ、歴史の中で力を持ち、秩序を担ってきた「強者」や「体制側」として、今の教会は存在している。

 初期教会が拡大した背景には、政治権力や異教との緊張関係、そして戦争と征服の歴史があった。

 そもそも歴史上、非暴力や平和主義だけを掲げて領土を拡大したり、あるいは構成員(国民)を獲得できた共同体は一つもない。淘汰や搾取が前提となっている社会においてある意味必然である。そしてキリスト教と教会もまた社会の中に存在する限り、それらと無縁で過ごすことはできない(「暴力の必然化」を肯定する意図はない)。

 先に紹介した石川明人氏はこうも語る。「今も世界に二三億人ものキリスト教徒がいるということが、少なくとも主流派の教派が純粋な非暴力主義でも完全な平和主義でもなかった証拠であろう。キリスト教は真理だから広まったのだと思い込むなら、それはナイーブというより傲慢である」(『キリスト教と戦争』136頁)。――僕はこの言葉に同意する。信仰の広がりの背後には、福音の力と同時に、人間の欲と暴力の影も重なっているのだ。

 さて、平和についてこれほど熱っぽく語っているのには、個人的な体験が少し関係している。今年、僕は教団の研修で北米インディアナ州を訪れ、メノナイトやアナバプティストの歴史を伝える博物館「メノナイト・ホフ」に足を運んだ。

 展示室の一角に、「アナバプティスト・キャッチャー」と呼ばれる鉄の道具があった。これはさすまたを鋭くしたような道具で、当時、ルター派やカトリックの信徒たちがアナバプティストを捕獲し、拷問や処刑を行うために用いられていたという。

博物館で展示されていた「アナバプティスト・キャッチャー」

 鋭く曲がった鉄の鉤の先端を見た瞬間、僕は体が凍りついた。それは道具の残虐性というより、そのような行為をキリスト者がキリスト者に対して行っていたという事実に対してである。

 当時のアナバプティストの神学や信仰的な態度が、事態を引き起こしたことも否めない。例えば共同体への所属証明の役割を担っていた幼児洗礼を否定したり、信仰における個人の自由意志を尊重し、当時主流であった国教会の構造を否定することは一種の「無政府主義的・反権威的な教派」として警戒の対象でもあった。

 一方、大きな枠組みで捉えると、現代の教会もまた「異なる見解の者は排除すべき」と言わんばかりに同様の迫害を平気で繰り返す可能性はないだろうか? 実際、ボンヘッファーが生きた時代、教会や牧師がユダヤ人の強制収容所への連行を後押しした例は枚挙にいとまがない。

 「あの時代だから……」という意見が挙がるかもしれない。しかし当時のキリスト者も、現代のキリスト者も、同じ聖書を読み、同じ神を信じている。その意味で出発点においては何ら差異がないだろう(中世の識字率については考慮する必要があるが)。

 改めて教会は、大胆に言えば、ユートピア(存在しない理想社会)を夢見る前にまずは歴史を振り返る――それは自己理解に他ならない、そこから始めるべきだろう。「過去」の積み重ねが「現在」を構築し、「現在」の方向性が「未来」を形成する。

 もちろん、最終的な平和は神の御手に委ねられるものである。しかし僕たちはその実現に向け、日々の歩みの中で誠実に自己を見つめ、他者とともに平和を築く責任もまた担っている。何より、「神の国」という終末的希望は「過去・現在・未来」を貫く、神によって回復される「現実世界」そのものに他ならない。

 今、本気で平和を願うのであれば、真っ直ぐに、綺麗事抜きで、僕たちは自分自身を見つめなおすことが求められるだろう。その時、本当の意味での平和への〝第一歩〟が踏み出せると僕は信じている。

「教会の言葉は、概念によらず、『模範』によって、重みと力を得る」(ディートリヒ・ボンヘッファー)

福島慎太郎
 ふくしま・しんたろう 名古屋緑福音教会ユースパスター。1997年生まれ、東京基督教大学大学院を卒業。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝の運営、幼稚園でのチャプレンなどを務める。連載「14歳からのボンヘッファー」「ボンヘッファーの生涯」(キリスト新聞社)を執筆中。

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