【宗教リテラシー向上委員会】 アブラハムかエイブラハムか 山森みか 2025年11月11日

2025年9月29日、トランプ米大統領とイスラエルのネタニヤフ首相は、ホワイトハウスでガザ停戦合意を発表した。トランプ大統領は、その直前にニューヨークで開かれた国連総会に出席したもののあまり注力せず、その後の各国首脳やネタニヤフ首相との個別会談に重点を置いていたことが、イスラエルでは大きく報じられていた。
しかし、発表された合意の内容はイスラエル側にも意外だった。イスラエルに有利な項目が多く、ハマスが容易に受け入れるとは考えられなかったからである。ところが、カタール、エジプト、トルコなどイスラム諸国がそろって協力の意を示し、さらに驚きを呼んだ。今回の合意では、旧宗主国である欧州や国連は中心的な役割を果たさず、トランプ大統領がアラブ・イスラム諸国という「当事者」と直接交渉したのである。
トランプ大統領はどのようにして彼らの協力を取りつけたのか。理念ではなく利害に基づく取り引きが、これらの国々を動かしたのか。最終的にはカタール、トルコ、エジプトがハマスを説得し、ハマスは条件付きで停戦案に同意した。これで2年にわたる戦争が本当に終結するのか。ガザの人々は安定した生活を送れるようになるのか。将来のパレスチナ国家建設へとつながるのか。先行きは不透明だが、今はトランプ大統領の停戦維持への強い意志を信じて見守るほかない。

神の使いを迎えるアブラハム(「創世記」18章)ドレ画
この時のトランプ大統領のスピーチで印象的だったのは、「Abraham Accords(アブラハム合意)」の発音に関する彼の言及である。アブラハム合意とは、トランプ大統領が第一期政権で仲介し、イスラエルとUAE・バーレーン・スーダン・モロッコの間で結ばれた国交正常化合意を指す。彼は英語風の「エイブラハム」ではなく「アブラハム」と発音し、「本物(リアル)の人々はこう呼ぶ」「こちらの方がエレガントだ」と述べた。ネタニヤフ首相はそれに応じてヘブライ語で「アブラハム」と発音してみせたが「どちらでもいい」と返したため、会場には笑いが起こった。もともとイスラエル人は固有名詞の発音にあまりこだわらない。かつて首相を務めたオルメルトも、記者に名前の発音を問われて「オルメルトでもウルメルトでも構わない」と答えたほどである。
その後もトランプ大統領はアブラハムの発音にこだわりを見せ、10月13日、イスラエル人の人質全員が解放された日にクネセト(イスラエル国会)で行った演説でも、ヘブライ語風の発音を強調した。
なぜ彼にとって英語風ではないアブラハムの発音が重要なのか。アブラハムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教に共通する祖であり、この名を冠することで三宗教の共通性を強調できるのは確かである。トランプ大統領はこの発音を通じて、第二期政権ではアブラハム合意をさらに拡大するという強い意志を示しているのかもしれない。彼は「ピースメイカー」を自任しているが、三宗教を結びつける役割の象徴的表現が、この発音なのだろう。
もっとも、アラビア語では「アブラハム」は「イブラーヒーム」で異なるし、ネタニヤフ首相も「発音はどちらでもいい」と言っている。トランプ大統領のこのこだわりは、やや独り相撲にも見える。とはいえ、このような細部にこそ彼の自己演出の核心が潜むのかもしれない。合意の内容に比べれば取るに足らないことだが、次にトランプ大統領のスピーチを聞く時には、この「アブラハム」の発音にも留意してみてはどうだろうか。

山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。















