【宗教リテラシー向上委員会】 正しさを量る道具 向井真人 2025年12月25日

法話とは法の話である。法とは仏の教えであり、この世界の揺るぎない基本原則そのものだ。私たちが生きていると感じている、この、今の、冷徹な事実。基本原則のことを世の真理と言い、どのようなものであるかを分かっていれば生きやすい。分からなければ生きづらいだろう。諸行無常、諸法無我、一切皆苦。これらは単なる仏教用語ではなく、誰の目にも明らかな現実の記述だ。
私はこの欄を借りるたび、自分に言い聞かせていることがある。「自分の言いたいことを正当化するために、仏教を道具にしてはいけない」と。仏教を秤にしてはならない。
自分が正しいのだという証明の道具に、仏教を使ってはいないか自問自答する。私は「このまま葬儀をしなければ成仏しませんよ」と脅すことはしていない、と自認している。しかし、そのように伝わっていないだろうか? 仏教では輪廻や成仏の教えがあるが、脅しの道具ではない。むしろ、仏教はそんな「正しさ」を振りかざすエゴをこそ、溶かしていく。「私が正しい」というその思いこそを根底から見抜いていく。
SNSで誰かが意見を投稿して、議論が白熱し、炎上することがある。そんな時「これが正しい意見だ!」と何かの言葉を引用して叩きつける人がいる。仏教で言うならば「諸行無常だから、君の意見は一時的なものだ」「無我だから自我にとらわれるな」だろうか。これは仏教の教えを伝える行為ではない。自分の立場を強く見せたい、自分の立場を守りたいという執着が、言葉を借りているだけだ。
諸行無常とは、すべての現象が絶えず変わりゆく、という冷徹なまでに正直な事実だ。誰かの意見も、自分の意見も、変わるかもしれない。だからこそ、現実に執着せずに柔らかく受け止めたい。絶対の「正しさ」があるとしたら、ただ「うつろいゆくこと」それ自体が真実だ、と言えるだけだ。

Unsplashのwilsan uが撮影した写真
正しさを量る道具を捨てなければならない。正しく言えば《〇〇とは正しさを量る道具であるという認識》を捨てる必要がある。自分の思う「正しい答え」を先に置いて、現実を曲げて見ていないだろうか。こういった行為は、視線を向けられると気づきやすい。よく見かける光景がある。「お寺は儲かってるんだろう、でもお金は出したくない。でも墓は建てたい。弔いはちゃんとしてほしい」「クリスマスイベントは楽しいから参加するけど、日曜礼拝は面倒だから行かない」どちらも、都合のいいところだけもらって、大事な部分は見ないようにする姿勢。ただ乗り、フリーライドだ。伝統文化や宗教毀損も甚だしい。自分でも気づかないうちに、「自分の都合=正しさ」という秤で宗教や伝統を量っていはしまいか。秤を握りしめている限り、本当の教え、本当の文化には触れられない。答えを先に決めつけないで、ありのままに触れる。それが禅の心である。
《〇〇とは正しさを量る道具であるという認識》の〇〇に当てはまる言葉には何があるだろう。基本的には、主語が大きい、発言権のあるものが当てはまる。宗教、日本人マスメディア、インターネット。親、みんな、などだろう。
仏教は秤ではない。鏡である。自分を映し、自分の執着を照らす鏡であって、他を裁くためのものでもない。鏡がくもっているから磨くことも必要だろうか。いや、そもそもその鏡には塵ひとつない。磨く必要もない。もしも鏡が曇っているように見えるならば、秤を握りしめている手が映っているだけである。秤を手放せば、鏡はもともと澄んでいると気づく。さて、正しさの秤を机の上に置いた時、初めて両手が自由になる。その空いた手で、目の前の現実としっかり向き合えるだろう。放てば手に満てり。仏教が教えてくれる本当の生きやすさだ。空手で年越しを迎えたい。

向井真人(臨済宗陽岳寺住職)
むかい・まひと 1985年東京都生まれ。大学卒業後、鎌倉にある臨済宗円覚寺の専門道場に掛搭。2010年より現職。2015年より毎年、お寺や仏教をテーマにしたボードゲームを製作。『檀家-DANKA-』『浄土双六ペーパークラフト』ほか多数。

















