【雑誌紹介】 裁きなき共同性の可能性 『福音と世界』2月号

特集「裁き――人による人への裁きから離れて」。堀越耀介(東京大学共生のための国際哲学研究センター特任研究員)の「哲学プラクティスにおけるアナーキー――哲学対話が裁かないもの」。
「私たちは絶えず裁き、裁かれている。学校では成績によって、企業では業績によって、社会では成功と失敗の物差しによって。人びとは序列化され、評価され、値踏みされる。これまでは、外部の権威――神、国家、制度――によって担われてきた裁きも、とりわけネオリベラリズムに巣食う『自己責任論』が浸透する今日においては、その主体が外部から内部へ移り変わってもいる。こうして私たちは、他者に裁かれる以前に、自らを裁く」
「筆者は一〇年以上にわたり、学校や企業において『哲学対話』/『子どもとする哲学(Philosophy for Children)』の実践に携わってきた。そこで繰り返し目撃してきたのは、自分ないし社会に『裁かれてきた人びと』の抱えるスティグマであると同時に、それが少しずつ変容していく姿である」
「私が長年実践を重ねてきた教育困難校を例にとろう。教育困難校とは、学力面で課題を抱える生徒が相対的に多く在籍する学校を指す。そこで、生徒たちは『できない者』として配置されている。彼らの声は、知的な議論のみならず、あらゆる領域に参与する資格のないものとして処理され、また彼ら自身によってもそのように自認されがちである」
「しかし哲学対話の場では、この配置が組み換えられていく。『できない』と見なされてきた生徒が哲学的な問いについて考え、その発言が他の参加者――教師を含む――によって真剣に受け止められる機会を創設する。これは特権的に正解にアクセスできる者がいないという哲学の構造を利用した、既存の『感性的なものの分割』に対する小さな、しかし確かな攪乱なのである」
「この時空間で私たちが経験するのは、裁きなき共同性、支配なき関係性の可能性ではないだろうか。哲学対話の参加者は、互いの意見の『正誤を判定する』のではなく、むしろ互いの『分からなさ』、『問い』に応答し合う。ある人の問いが別の人の思考を触発し、その思考がまた新たな問いを生む。この連鎖の中で、私たちは個でありながら共同体でもあるという、両義的なあり方を経験する」
【660円(本体600円+税)】
【新教出版社】














