【この世界の片隅から】 私のこの生命を――「消されたクリスマス」と中国Z世代の信仰 遠山 潔 2026年2月11日

「私は医療関係の仕事を通して、主に仕える者になりたいです」。ある若い中国人クリスチャン女性が、そのように自身の献身について語ってくれた。彼女は幼少期から地元の家庭教会(政府非公認教会)に通っていたという。その教会とは彼女の家であった。祖父の代から彼女の家族はキリスト者として生き、そのうち村のほとんどの住民がキリスト教信仰を受け入れるようになった。1人また1人と福音を伝えていったからだという。「私はこの生命を主イエスにおささげしたのです。主のみ心のために用いていただきたいのです」。まだ若い彼女は、そう篤く語った。ガラテヤの信徒への手紙2章20節の言葉を彷彿させるような、純粋なその篤い思いがまっすぐに伝わってきた。
2025年12月、中国ではクリスマスの気配すら感じられなくなっていた。2010年代の12月とはまったく異なる。クリスマスの雰囲気が完全に押し殺されたような、あたかもイエス・キリストの誕生はなかったかの如く、ネオンサインすら見られなくなり静まり返った12月となっていた。中高などの学校では、キリスト教の活動に一切かかわることのないようにとの通知が掲示されたともいう。徹底して排除されたクリスマスといってもよいだろうか。この今まで以上に厳格な規制は、当然、家庭教会にまでも及んだ。
今まで12月の教会の礼拝には多くの若者たちが殺到していた。友が友に声をかけ、初めて教会の礼拝と愛餐会などの交流の場に足を運ぶ人が後を絶たなかった。しかし、その光景も消えた。いや、正確には、おそらく姿かたちを変えて他の方法で集まっているのであろう。地下に潜ったのかもしれない。実体は定かではない。だが、青少年たちはどこに希望の灯を見出せばよいのであろうか。そんな疑問がふと頭をよぎった。
若者との接点を多くもつ知人に尋ねてみた。最近の若い人たちは何に関心があると思うかと。すると、こう言われた。「今の青少年たちは、生命と死について深い関心を抱いているように思います。将来が見通せないからこそ、言語化できない不安を抱いているからこそ、自分の人生について、深く考えさせられているのだと思います。悩み葛藤しているのだと思います。その姿を見ながら、自分に何ができるのだろうかとわたしも思い悩んでいます」
めざましい経済発展を遂げた中国の今の若者にとって、物質的な必要は容易に満たし得る社会が当たり前となった。欲しいと思ったらすぐに何でも簡単に購入できてしまう社会が、彼女たちにどのような影響をもたらしているのだろうか。それは生命の儚さと脆さを、またその尊さをどのように映し出しているのだろうか。

「生命と死」展覧会の様子写真 by A.Z.
先日、知人が述べていた。北京で「生命と死」という展覧会が催されたそうだ。どういう人が来場しているのかと思ったら、そこにいたほとんどの人が若者だったという。高齢者の姿は皆無。むしろ若者だらけで驚いたというのだ。いわゆる「Z世代」の人たちだ。なぜ「生命と死」というテーマにそこまで深い関心を示すのか。
近藤大介氏の『ほんとうの中国』(講談社現代新書)にもあるが、「Z世代」の若者たちは「長期不況時代」の中で相当な苦労をしている。日本とは比較できないほど過酷な競争社会のただ中で、サバイバルすることに必死になっている。そのため、自分の人生とは何か、この問題に直面しているのだという(237頁)。だからこそ、「生命と死」という展覧会にも高い関心を示したのかもしれない。
自分の生命をどう生き抜くか。さまざまな葛藤があり悩みがある。複雑な事情と思いがある。だが、それでも私のこの生命は、「主よ、あなたのものです」と告白できる人はなんと素晴らしいのだろうかと思う。そのような若者が、中国の地から世界を徐々に変えていくのかもしれない。そうした思いを抱きながら、この日本にも中国の若者たちが移住していることを耳にして、新たな希望の灯を感じた。
遠山 潔
とおやま・きよし 1974年千葉県生まれ。中国での教会の発展と変遷に興味を持ち、約20年が経過。この間、さまざまな形で中国大陸事情についての研究に携わる。国内外で神学及び中国哲学を学び修士号を取得。現在博士課程在籍中。














