【雑誌紹介】 イエス・キリスト一点しぼり 『福音宣教』3月号
イエス・キリスト一点しぼり
2017年11月23日、カトリック浦上教会で、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会共同主催式典「宗教改革500年共同記念――平和を実現する人は幸い」が行われた。編集部がシンポジストの1人、カトリック長崎教区司祭の橋本勲に着目、その講演内容を紹介している。
長崎キリシタンの歴史は、迫害、潜伏、殉教の歴史であるとし、橋本は《キリシタンの伝統は「崩れ」によって歴史の表面に現れたと指摘する。この「崩れ」というのは、キリシタンの大量検挙事件のことであり、一八六七年の浦上四番崩れが有名だが、崩れは何も浦上だけでなく、木場崩れ、五島崩れ、郡崩れ、濃尾崩れなどがあることにも触れながら、浦上は何度も執拗に「崩れ」が発覚される「崩れ」の王道のような地と強調する》。
「崩れ」という言葉は、長崎出身の浦上キリシタン史の研究者、カトリック仙台司教であった浦川和三郎によるものと確認した上で、橋本は、浦川が《『崩れ』という言葉の奥底に、究極の崩れであるイエス・キリストの死をイメージしたのだと思います。死と復活はセットでありますから、この『崩れ』はいのちに至る、つまり復活に至る『崩れ』なのです》と解釈する。220年の間、1人の司祭もいない、熾烈を極めた迫害と潜伏の出来事について、橋本は《浦川師は司教として信仰者として、たしかに目に見える牧者はいなくなったのだけれども、ただ一人の本物の牧者・宣教師、すなわち復活者キリストが居残り、潜伏するキリシタンの側に寄り添っていたと見ていたに違いない」……日本にキリスト教が宣教されていくうちに、できるだけ余分な人工添加物を取り除いて、そこからすべてを見直し、組み直しやり直していこうという試みがなされ、イエス・キリスト一点、復活体験一点、ここにしぼり込まれていくわけです。……こうした『キリスト一点しぼり』がキリシタン史において起こっていたのだと思います》と。
連載『食べて味わう聖書の話』が最終回を迎え、「最後の晩餐」について、聖書学者の山口里子と料理講師の牧野幸子が思い巡らしている。
【本体500円+税】
【オリエンス宗教研究所】