【雑誌紹介】 視覚と聴覚を適切かつ効果的に用いるか 『礼拝と音楽』177号

 特集「礼拝と視覚」。始めに日本ナザレン神学校教授の石田学が「聖なるドラマとしての礼拝」について≪わたしたちは、いわゆる五感をとおして物事を認識し、理解し、表現します。感覚から切り離された知識や体験はあり得ません。中でも、わたしたちはおもな情報を視覚と聴覚をとおして受け取ります。他の人に何かを伝えようとするとき、おもに相手の視覚と聴覚に訴えて理解と共感を得ようとします。……情報の伝達において味覚、嗅覚、触覚も重要ですが、情報の伝達量から言えば断然、視覚と聴覚が重要であり、中心的な役割を担っています……それは礼拝にも言えるのではないでしょうか。視覚と聴覚を適切かつ効果的に用いるかどうかで、伝えたいことが的確に伝わる礼拝ともなれば、反対に伝えるべきことが充分に伝わらない礼拝となることもあります。……今回、わたしたちは「礼拝と視覚」という特集に取り組むにあたり、礼拝において視覚(および他の感覚)がどのような意味と役割を持つかを考えます。そのために、礼拝の持つドラマ性に焦点を当てて、「聖なるドラマとしての礼拝」という主題で感覚の果たす役割と可能性について共に考えてみましょう≫と。

 ≪近現代の礼拝学は、礼拝についての説明と解説、そして具体的な式文を文字化して提示することについて、すばらしい成果をあげてきました。しかし、一部の例外を除いて、礼拝の持つ聖なるドラマとしての意味は、あまり深められてこなかったように思います≫として≪多くのプロテスタント教会は「ことば」を重んじる伝統を受け継いでいます。そして、その意味を文字と音声による聖書と説教に限定して理解してきました。そのため、視覚に訴えることは遠ざけられ、否定的に捉えられてきたように思います。……たしかに「ことば」は大切です。しかし、文字と音声としての「ことば」だけが礼拝の本質的なことがらでしょうか。……もし礼拝がキリスト者にとって、イエス・キリストによる原初の歴史的な出来事を聖なるドラマとして追体験することで、それを現在の自分たちの物語として体験するという意味を持つものであるとするなら、聖なるドラマとしての礼拝という視点から礼拝を考えてみることは、充分に意義のあることだと思います。そして、ドラマであることの本質から考えて、礼拝における視覚的なものを見直す価値があるはずです≫と。

 さらに《礼拝は聖なるドラマとして救済のドラマを現在化します。礼拝の場で読まれ、語られ、演じられるものは古代の歴史的物語であるとしても、それが聖なるドラマとして追体験されることによって、時間を超えた表象として機能します。そして、歴史的出来事は歴史を想起することを超えて、歴史を超える使信を、キリストとの関係で言えば、キリストが今共にいてくださるという体験としての使信を媒介することでしょう》と。

【本体1,364円+税】
【日本キリスト教団出版局】

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