【既刊再読 改めて読みたいこの1冊】 『一粒の麦』 渡久山朝章

『一粒の麦』(日本キリスト教団読谷教会、1987年)
岸政彦「マンゴーと手榴弾」(けいそうブックス)、藤井誠二「沖
「さて、夢の間も忘れることが出来なかった故郷ではあったが、帰村した彼等の眼前に展開された現実は、余りにも厳しいものであった。基地のはざまの二集落地域に押し込められた村民たちは、七名以上の家族には五坪の草ぶき小屋を与えられたものの、六名以下は間仕切り部屋にぎゅうぎゅう詰めとなった。したがって炊事場などは、自ら古板等を拾ってきて工夫しなければならなかったのである。かつて甘藷が植えられサトウキビの葉が波打っていた畑は、すっかり基地と化し、その他は砲弾でほじくり返され、雑草の茂るがままの状態になっていた。教会はというと、かつて偉観を誇っていた教会堂は跡かたもなくなり、敷地内には雑草がはびこり、道向こうの山野は すべて米 軍の露天弾薬倉庫となり変わっていた。そのような中でも信徒達は、たがいに声かけあいはげましあいながら家庭集会を持つようになっていった。……幸い教会敷地の西隣には読谷初等学校(小学校の前身)が再建されており、そこのテント教室を借用し集会場とすることになった。その頃はキリスト教国アメリカという影響もあり、さらに人々は心の渇きをいやすためもあってか求道者も多く、テント校舎の一教室のスペースだけでは参会者を収容できず、間仕切りのテント布を巻き上げることも少なくなかった」
また近代日本キリスト教史の一幕も顔をのぞかせる。例えば、賀川豊彦の沖縄訪問である。
「昭和27年(1952年)6月にはまた賀川豊彦師のご来沖があり、読谷でも特別伝道大集会が持たれた。高名な賀川師の特別説教とあって、神山師はあらかじめ読谷沖映の野外劇場(ステージ部は屋根があり、楽屋も充分取られていた)を会場として借り受けられていたが、集会が始まる前から大入り満員となり、それこそ立錐の余地もないというほどであった。 最初の讃美歌伴奏は編者が受け持つという光栄に浴したが、後で比嘉盛仁師に代わり、おかげで舞台のかぶりつきで拝聴することができた。 賀川師の説教は、意外に宗教的というよりむしろ農村生活の向上という面が多く、その蘊蓄を傾けられたお話は満場の聴衆に深い感銘を与えた。 四国の海べりの急斜面を開いて段々畑となし、「耕して天に至る」というお話しや、北米での恩給の木とよぶクルミの一種ピーカンのことに及ぶと、大きな白紙にさらさらと達筆で墨書されていたのが編者の脳裏に今でも鮮やかに浮かぶ」
著者・渡久山朝章には、『南の巌の果まで――沖縄学徒兵の記』(
NCID
BN06026920
全国書誌番号
94005178
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【日本キリスト教団読谷教会】―