【書評】 『人生のすべての物語を新しく』 濱 和弘
まるで井上陽水の「傘がない」に応答するかのような良書である。思えばちょうど10年前、「3・11」で被災地に駆けつけた教会が、語るべきことばと神学を持ち合わせていなかった自戒から、宣教とは何か、救いとは福音とは何かの再考が始まったように思う。2年後にキリスト新聞社から出版された、スコット・マクナイト『福音の再発見』は衝撃を与え、方向性を示した。神の物語に自らの物語を書き込み、王なるイエスを模範として、神のかたちと被造物回復の旅を、教会共同体がこの世のただ中で続ける。ゆえに、著者自身の赤裸々な物語から筆を起こし、家族への遺書とのあとがきで締め括られる本書の、間に挟まれた旅の中身は極めて神学的だ。信仰者の歩みは自らの神学の体現だから書き遺しておきたいと著者は言う。
本書のテーマは救済論である。我らプロテスタント教会は、西方神学の伝統に基づき、代償的贖罪論による「私の罪の赦し」こそ神の裁きからの「救い」と位置づけてきた。著者はそれを尊重しつつも、東方神学の「死からの救い」と「神化論」に基づく広い救済論へと包摂する。まず「人間論」では、原罪から発した「内側の罪」に対し、出エジプトの出来事が例証する「外側の罪」(抑圧や社会問題)に起因した苦悩からの救いの問題を扱う。「罪」理解に至って、著者は専門領域であるエラスムスの「情念」と「理性」の関係理解を援用する。罪と死の力と戦いつつ、完成に向かって神の似像を回復するプロセスとしての救い理解は、まさしく東方的だ。
次に「救済論」では、救いの根拠をアブラハムの信仰に基づく契約に置き、十字架の死に至るまで神に従順だったイエス・キリストによる新しい契約へと結実する様を描く。「キリストを信じる信仰」「キリストの信実」のイシューも扱われ、後者の妥当性が提案される。罪の支配からの解放は、法的よりも場所的位置関係の変化であるとの提案も興味深い。人間性の回復、被造物世界の回復もそうだ。そして「教会論的キリスト論」では、受肉したキリストのからだなる教会こそ、神の王国の現れであり「救い」の場所であると宣言する。
評者が担当する「組織神学」クラスでは、所属教団や教会の神学的特徴や伝統をリスペクトしつつ、いったん既成の枠組みを解体し、聖書が語る救いと福音を最も適切に描き得る神学を再構築する作業を行う。本書はそのロードマップに最適なのだが、最初から読ませず、立ち往生した際に差し出そうかとも思う。なぜならこの再構築は「旅」であり、自分で行わなければ、それこそ「赦された罪人」という外側だけの義認理解で満足してしまう可能性があるからだ。それほど本書の道筋は明快であり、心憎いほど納得させられるのだ。
「君に逢いに行かなくちゃ……」。「君」とは傘なる教会であり、キリストであろう。入口で悔い改めと信仰を迫る門番が張り込むシェルターではなく、世の雨に濡れて駆け込む人々へ、キリストを軸に福音の生地を拡げられた傘を差し出す教会となるべく、教職者も信徒も熟読すべき書である。(評者・関野祐二=聖契神学校校長)
【本体2,300円+税】
【教文館】978-4764261457