【書評】 100年前のパンデミック 富坂キリスト教センター 編
大正時代の日本を襲い、45万人以上の命を奪った感染症、スペイン風邪。猖獗(しょうけつ)をきわめる新型感染症を、日本のキリスト教界はどのように捉え、対処したのか。これまでキリスト教史でほとんど言及されてこなかった100年前のパンデミックと教会の関係を、当時の各教派機関紙、学校史、キリスト者の日記などからスペイン風邪に関する記事を抽出、検討することで解き明かす。
調査は、戒能信生、神田健次、原誠、李元重、三好千春、柳下明子、辻直人、熊田凡子、上中栄の各氏による分担で行われ、担当範囲に則した内容を、各執筆者が寄稿。随所に感染症対策の専門家である堀成美によるコラムが。
スペイン風邪は「スペイン」と名が付くものの、スペインは発祥地でもなく、最も犠牲者が多い国だったわけでもない。感染拡大したのが第一次世界大戦の戦場であったため、感染症の報道が厳しく規制され、原因がウイルスであると判明していなかったこととあいまって、各国で医療崩壊が連鎖し、甚大な犠牲者が出た。現在の研究では、世界中で5000万人が死亡したとされているが、この中には劇作家の島村抱月、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーも含まれる。
その流行は、1918年10月から1920年5月までとされるが、地域によっては数カ月で過ぎ去ったので、人々の記憶に残らなかったという側面がある。このころ日本は第一次世界大戦が終わり、戦後の不景気が直撃していた。国際連盟が発足し、そこでうたわれた「民族自決」が一つの契機となって、朝鮮では三一独立運動が起こり、中国では五四抗日運動が始まった。それら大事件の報道に追われ、当時の新聞はスペイン風邪についての総合的な調査報道を行っていない。
資料を調べると、スペイン風邪の第一波とされる約半年の期間に現役の牧師が6人死亡。機関誌には牧師の死去が大きく扱われており、教会員一人ひとりの死去がどれほどだったかは不明だが、教会員の死亡者はさらに多かったと推察される。今回調査した資料全体では、100人を超える死者の記載がある。
カトリックでは、大阪教区の司祭たちがスペイン風邪にかかって重体に陥ったり、死亡したりしている。遠因としては第一次世界大戦の影響もあるが、第一バチカン公会議の精神が導入された直後であったことも関係しているだろうと三好氏は指摘する。
人命と健康への被害以外にスペイン風邪が教会に与えた支障は、礼拝と集会の縮小、日曜学校の休校だった。強力に進められていた伝道のための特別集会も取りやめになるなどした。1918年11月、集会を強行した岡山教会には365人もの参加者があったが、説教者だった木村清松が罹患。その後、休養を余儀なくされたという記録が残っている。
しかし当時のキリスト教会にとって、スペイン風邪は信仰的、神学的な問いかけとは受け止められなかった。外的要因による死、病気による死者として理解され、神学的課題とされることはなかった。日本の教会が災害や社会の問題を自分たちの課題として考えるようになったのは、関東大震災以降のことだったと戒能氏は指摘する。
スペイン風邪と再臨運動との関係も、二人の執筆者によって考察されている。内村鑑三が再臨運動を開始したのは1918年1月。娘ルツ子の逝去と第一次世界大戦の勃発、アメリカ参戦が起因とされ、当時まだパンデミックはこの国に襲来していなかったため、無関係と考えられることが多いが、各地での再臨集会はスペイン風邪大流行のなかで展開された。
聖書が示す再臨(終末)の予兆としての戦乱(第一次世界大戦)、飢饉(米騒動)、疫病(スペイン風邪)、地震(その後来る関東大震災)についての内村の指摘が、参集した人々の心にリアルに響き、受け取られた可能性がある。
「忘れられた」100年前のパンデミックについて、李氏は「むすびに」でこう述べる。「自分の健康と各々が属している教会を守ること以外に具体的な対応はなく、だから教会の記憶としてもほとんど残っていないと思います。21世紀のコロナ禍の中でも、感染拡大を防ぐだけでなく、社会の様々な変化が予想されています。また、貧富の格差の拡大や、差別の問題も予期せぬ形で表れているのが現状です。現在の日本の教会は、キリスト教信仰に立って、このパンデミックの時代と社会が要求する行動を実践しているかどうかを問い直さなければなりません。10年後、50年後、100年後、コロナ禍の中での日本の教会の対応と取り組みは、どのように評価されるでしょうか」
【1,650円(本体1,500円+税)】
【新教出版社】978-4400213307