【雑誌紹介】 召し使いの代わりに侍(さぶら)ふイエス 『信徒の友』9月号

 特集「召天25年 遠藤周作」。遠藤周作が佐藤泰正氏との対談の中で、自らの作品『侍』について語っている(「人生の同伴者」)。「『ここからは……あの方がお供なされます』と召し使いが言いますね。あの一点にかけて小説全体をずうっと絞っていった。召し使いの代わりに侍(さぶら)ふイエス。同伴者になっていく。『ここからは……あの方が、お仕えなされます』のところまでどういうふうに絞っていくかということが、あの小説の狙い目だったんです」

 『遠藤周作事典』編集委員の兼子盾夫はいう。「今でこそプロテスタントもカトリックも、『沈黙』の評価に少し変化が見られるようですが、クリスチャン人口は限られたものです。ではいったい、誰がこの本を読んできたのでしょうか。この世では心ならずも絵踏みせざるを得ない経験が誰にでもあるものです。済まないと思いながらも恩人や友人を裏切った経験をした人によって、この本は読まれてきたのではないでしょうか」

 「8章の終わりに神父ロドリゴが絵踏みをします。これが小説のクライマックスなら、そこで終えてもいいはずです。しかし続く9章<終章>、ロドリゴの5年後が描かれます。不犯(ふほん)の彼が死刑囚の女房を押し付けられ、キリシタン探索の手助けをさせられる。殉教の名誉も司祭としてのプライドもすべて失われ、生ける屍(しかばね)のような彼の余生です。

 夕方、向分が踏んだあの人の顔を思い出す。あのときあの人は、踏むがいい、お前の足は今痛いだろう、私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあうためにいるのだと言った。そうだ、あの人は沈黙していたのではなく、私たち苦しむ者とともに苦しんでいたのだ。ロドリゴは喜びをもってそのことに気づきます」

 「遠藤は文学者の三好行雄氏との対談で、多くの読者は『切支丹屋敷役人日記』のところでこの小説を読むのを止めてしまうとこぼします。巻末に文字のサイズを下げた仮名交じり漢文のような文章が出てくれば、大概の読者は歴史資料だと思って読まない。しかしここが大事なのだというのです。

 憐憫(れんびん)のあまりとはいえ、制度としての教会の教えを破った神父はその後どう生きたのか。この小説の肝は、罪を犯した後にロドリゴが出会った神の愛、それに応えていく真摯(しんし)なキリスト教信仰にあるのです。

 読者の皆さんもぜひ9章と『切支丹屋敷役人日記』にいまいちど目を通し『沈黙』の肝を味わっていただきたいと思う次第です」

【600円(本体545円+税)】
【日本キリスト教団出版局】

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