【書評】 『白光』 朝井まかて
日本で初めて、正教会のイコン(聖像)画家となった山下りん。幕末に生まれ、激動の明治・大正・昭和を駆け抜けた清冽な生涯を、2014年『恋歌』で直木賞を受賞した朝井まかてが描く。
笠間藩(現・茨城県笠間市)の藩士の家に生まれたりんは、絵を学びたい一心で東京へ。神田駿河台のロシア正教の教会を訪れたことをきっかけに正教徒となり、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。期待を抱いて入った女子修道院だったが、そこで命じられたのは、ルネサンスの優美さや自由な創造性を排して、遠近感のない〈黒く汚い絵〉を模写すること。修道院の方針に憤慨し、反発するも問題児のように扱われ、日記に「心悪シ」と綴る日々だった。りんはストレスから体を病み、5年の留学期間を2年で切り上げたが、戻ってきた日本には、出発時とは違った風が吹き始めていた。
「昨年頃から、国粋めいた風潮が高まりつつあるらしい。急激な近代化、西洋化に反発した波で神国日本の伝統を重んじ、日本人としての誇りを取り戻せとの気運だ。絵画については、東京帝国大学で教鞭を執っていたフェノロサという学者が『美術真説』との講演で、日本画の復興を訴えたらしい。外国人が日本伝統の絵画の真価を力説したのであるから、国民の感動はいかばかりであっただろう。(中略)日本画の再評価はいつしか国粋主義と合流し、美術にかかわる省庁をも巻き込む大波になった」
日本文化に理解を示す宣教師ニコライの励ましを受け、りんは教会併設の工房でひたすらイコン制作に没頭する。しかし時代は次第にきな臭さを増し、ロシアをめぐる情勢は正教会を直撃する。
「(大津事件の際はロシアに攻められたら日本は壊滅すると大騒ぎだったのに)しかし今は、『ロシヤごとき、なにものぞ』との風潮に変わってきている。契機は清国遼東半島に位置する旅順であるらしい。ロシヤは太平洋への出口として、獅子口という古称を持つこの港を租借、極東に進出してきた。朝鮮を領土としたいのだ。だが日本はすでに朝鮮で多くの利権を持っている。大陸進出への足がかりとしても重要な拠点で、奪われるわけにはいかない。そこで着々と軍備を増強し、ロシヤに対する敵意を高めている」
ついに日露戦争が勃発し、正教徒は「露探」の嫌疑をかけられ投獄された。戦争は多くの犠牲を払って日本が勝ったが、賠償金もないと知るや、国民は激怒する。深刻な不況に疲弊した国民は政府に不満を募らせ、その一部が暴徒となって正教会を取り囲んだ。戒厳令が布かれ、正教会は軍隊の駐屯地のようになった。
そんな中でもりんは筆をとり、〈信仰の窓〉となるイコンは各地の教会に奉献された。基本的にイコンは模写であり無署名であるため、りんの名前は記されていない。人づき合いをほとんどしなかったりんは、同じ寄宿舎に住む女子神学生とも浴室で会う程度だったという。機関紙で留学生活を語ることもなく、目立った自己主張をしなかった。人柄を物語る資料の少ないりんの姿を、著者は残された日記などを元に想像力の翼を張って描き出す。
作中に、りんが真の信仰に目覚めるような劇的なシーンはない。タイトルとなった「白光」は、りんが初めて礼拝に参加した時(「幾筋もの、白い光」)と、晩年に至った最終章(「白光の彼方にいる」)でだけ現れる。わずか2回だが、イコンを描く時に窓から射し込んでいた光、故郷でもロシアでも自然の中に輝いていた光を思えば、その生涯全体が光に導かれ、照らされていたといえよう。著者はインタビューでりんのことを、「苦しみながら描き続けるうちに、(自己の存在が)透明になっていった人だと思います」と語る。
信仰と芸術のはざまで葛藤し、自己主張よりも、光のように透明になっていくことで、もう一つの光を描き残したりん。「白い光」「白光の彼方」が、時を超えて遍在する「何か」を意味するなら、誰もがその光に照らされて歩んでいるのかもしれない。
【1,980円(本体1,800円+税)】
【文藝春秋】978-4163914022