【書評】 『パウロと律法』 ヴェロニカ・コペルスキ 著、澤村雅史 訳
信仰義認と行為義認という対比は、特にプロテスタント教会において信仰生活の最初に学ぶことである。時に、あまりにも自明視されるため、「では、信仰義認とはなんですか?」と問われた時に、牧師であれ信徒であれ、今さら正確に答えることが難しいほどである。
著者ヴェロニカ・コペルスキはカトリックのシスターでもある。その彼女がルター派プロテスタントの新約聖書学者ルドルフ・ブルトマンの信仰義認論をみる時、それはもはやルター派の神学なのであって、パウロ神学において自明でもなければ普遍でもない。ルターからブルトマンに至る行為義認と信仰義認との対比において、パウロ以前のユダヤ人は律法を守ることで高慢になっており、それに対してパウロは神からの(一方的な)賜物としての義を語ったのだと理解されてきた。けれどもフィリピの信徒への手紙(2:12)にあるように「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と、パウロはルター派の伝統的理解だけでは包括し得ないことを語っているという事実がある。コペルスキはこのような問題点から始めて、研究者たちが、それぞれパウロの律法理解をどのように考えてきたのかを概観する。
パウロ研究者以外の一般読者が、たとえばJ・D・G・ダン『使徒パウロの神学』をひもとく時、日本語訳にして900頁以上あるこの書物の、パウロ研究全体における位置づけを知ることは難しい。しかし本書を参照すれば、近年のパウロ研究が信仰義認のみではなく、パウロの置かれたユダヤ的状況や手紙の書かれた文脈など、多岐にわたる視点から行われており、ダンによる研究もまたその一翼を担っているということが見えてきて、学びがさらに深まる。それはその他のパウロ研究書を読む際にも当てはまることだろう。研究書を読む時には、その書物の内容を理解するだけでなく、他の研究との関係性も重要だからである。
読了後は、少なくともユダヤ人が個人の自己実現、他人を見下す手段として律法遵守をしていたというような、ファリサイ派を安っぽいドラマの悪役のように受け取る読み方はもはや支持できないということ、教会で安易に「あの人はファリサイ派的だ」というような批判をすることは不適切であることが見えてくるだろう。信仰義認と行為義認という安易な二項対立とは別の地平を、本書は研究者以外にも豊かに提示してくれる。
【3,740円(本体3,400円+税)】
【日本キリスト教団出版局】978-4818410121