【書評】 『〈怪異〉とナショナリズム』 茂木謙之介 編

 〈怪異〉と「ナショナリズム」とは、妙な取り合わせだが、〈怪異〉に関する研究は、今世紀に入り人文学の分野で着々と成果が積み重ねられてきた。もとより、〈怪異〉も「ナショナリズム」も定義が多義的で雑多であるが、具体的なものとして考えるのではなく、弾力性ある分析概念として用い、〈怪異〉の動態としての側面を捉えることで、多様な研究分野の知見を呼び込む可能性が開かれる。本書は各研究者の論考13本に、川村邦光(大阪大学名誉教授)、成田龍一(日本女子大学名誉教授)、島薗進(東京大学大学院名誉教授)の3氏によるコラムを所収。〈怪異〉と「ナショナリズム」をキーワードに、文学・思想・宗教・民俗学・メディア史を横断した学際的な議論が展開される。

 第2章で乾英治郎氏(流通経済大学准教授)は、日清・日露戦争と日中・太平洋戦争に参戦したとされる妖怪変化の話から、戦時下におけるナショナリズムの高揚が世間話や怪談に与えた影響について考察する。日清・日露戦争では、狸が出征したという話が各地で語られていた。「日清・日露戦争に出征し、帰国後に戦争の様子を住職に語った狸」(徳島県)、「幻術で日本軍を多く見せるなどして露軍を翻弄した禿狸」(香川県)など。ところが太平洋戦争期になると、狸に代わって九尾狐・河童・天狗などが戦場に現れて日本兵を守ってくれた話が散見されるようになる。そして太平洋戦争末期には、「神が出征し、人間の身代わりになって傷ついた」など、傷つき血を流す身体性を持った「神」が語られるようになる。これらは、人々の中で日露戦争が〈狸でさえ勝てた戦争〉であったのに対し、日中・太平洋戦争は〈神でさえ負傷する戦争〉とイメージされたという変化を物語る。「神の負傷譚」の背景には、戦況を正しく伝えないメディアに対する懐疑や戦況悪化への不安が隠されていたのではないかと、乾氏は指摘する。

 第4章で齋藤智志氏(法政大学兼任講師)は、東京都千代田区にある将門塚を例に、史蹟保存事業と史蹟の怪異について論じる。ぞんざいに扱えば祟りがあり、祀れば霊験があるとされる将門塚だが、1900年代半ばまでは平将門の墓所だという認識はおよそ存在していなかった。しかし、織田完介という人物が、「日本国は開闢以来未嘗て一の叛臣な」いことを世に知らしめることで皇威を宣揚しようと、将門の雪冤運動を始め、大蔵省敷地内にその墓があることを主張したのがきっかけとなった。織田の訴えに呼応した当時の大蔵次官が経済学協会で省敷地内に「平将門の墳墓」があることを紹介するとともに、その保存と顕彰を提案した。すると東京市内の史蹟保存に関与していた三上参次が、将門の遺体を埋葬した証拠はないものの、伝説の類があるなら「大いなる反証の出ざる限りは伝説を採用するとも宜しからん」と判断。1907年、明治財政史編纂会によって碑が建てられた。このときには祟りなどの話はなかったが、1926年ごろ、大蔵省職員がアキレス腱を負傷したり、蔵相が病死したりすると、「将門の怨霊のせいらしい」という噂が広がり、鎮魂祭が執行された。その後祟りの話は一時収まったが、戦時中の落雷で建物が損傷すると「やはり祟りだ」と、あらためて建碑することになり、建碑地鎮祭や将門公一千年慰霊祭が行われた。齋藤氏は、「このように将門塚は、国体史観に基づく偉人顕彰型の史蹟保存事業が各地でおこなわれた時代、将門雪冤運動の一環として」作られていったもので、アカデミズムの権威によるお墨つきを与えられ、やがて祟りの言説が織り交ぜられていったのだと指摘。近代の史蹟保存事業が、ナショナリズムに資する側面を持って、〈怪異〉と複雑な関係を取り結んだことを明らかにしている。

 第13章では、編著者を代表する茂木謙之介氏(東北大学大学院准教授)が、「“オカルト天皇(制)”序説」と題し、月刊誌『ムー』における天皇表象を分析・検討する。重要なキーとなるのは竹内文献などの「偽書」。『ムー』では超古代文明と天皇とを結びつけた言説が紹介され、世紀末にかけては、日本がハルマゲドンを生き残るための「方舟」だとする主張がなされていた。また、「日本人こそが、根源民族、単一民族で神に選ばれた民だ」というエスノ・ナショナリズムも繰り広げられていた。ただし、『ムー』における天皇言説は、今上天皇がメシアであるといったものではなく、あくまで想像上のオカルティックな「天皇」をイメージしたものだった。その意味では現実の「天皇」抜きのナショナリズムだったといえよう。

 これと関連して思い出されるのがオウム真理教を率いた麻原彰晃だ。麻原は、竹内文献を典拠にして『ムー』に投稿し、「今世紀末、ハルマゲドンが起こる」、(生き残る者たちの)「指導者は日本から出現するが、今の天皇ではない」と自説を述べていた。この投稿に前後して、オウム真理教は毎回『ムー』に広告を掲載して教団の勢力を伸長させた。

 『ムー』は両論併記的に、確定的な結論を導かない内容で、読者がバランスのとれた受け止め方ができるよう書かれているが、事実関係の確定が難しいオカルト的な「事象」については、書き手と読み手の捉え方に齟齬が生じ得る。茂木氏は「近代日本において展開していた天皇のスピリチュアルな『力』についてのオカルティックな想像力は現在もなお失われきっていない」とし、歴史的思考として今後も考察されるべきものだろうとしめくくる。

 人間と〈怪異〉をめぐる物語はいまも続いている。「あとがき」では、コロナ禍初期に流行した予言獣「アマビエ」は、ウイルスという目に見えない〈怪異〉的な現象に対して、予言獣という〈怪異〉をもって臨んだ社会現象ではなかったかと考察されている。〈怪異〉が、人がふだん意識しない心の裡から現れてくるものなら、これからも社会に〈怪異〉は尽きることがないだろう。では〈怪異〉の源泉は? 人間、この〈怪異〉なるもの――。そんな言葉が浮かぶ。

【4,180円(本体3,800円+税)】
【青弓社】978-4787292629

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