【書評】 『聖書語から日本語へ』 鈴木範久

 もとは聖書の言葉ながら、いまでは広く使われている言葉がある。明治期の聖書翻訳以降、「聖書語の日本語化」が進み、生活の中に聖書語は浸透した。本書では、日本語となった聖書語の例を集め、その言葉が一般に膾炙(かいしゃ)するのに寄与したベストセラーとともに紹介。著者の豊富な知識で解説する。

 「信徒数こそマイナーな宗教にとどまっている日本のキリスト教であるが、一方で聖書は広く普及し、毎年、隠れたベストセラーになっている。このことは、日本聖書協会による聖書の発行部数によって判明するし、また、教文館から発行された『近代日本キリスト教文学 全集』(一九七二-八二)が全一五巻にも及んでいる事実にも反映している。その結果、『聖書に出てくる言葉』が、実は日本語のなかに少なからず普及し、日本人のものの見方、社会のあり方に影響を与えている事実をもたらしている。『天国』、『復活』、『権威』、『奇跡』、『楽園』、『栄光』、『祝福』、『寛容』、『敬虔』などの言葉は、すっかり現代の日本人の常套語になっているし、その精神生活を豊かにしている」(「はじめに」)

 1858年、日米修好通商条約の締結とともに、日本の開国を待ちわびていた宣教師の来日が相次いだが、まだ日本はキリスト教が禁じられたままだった。禁教の解除を見込み、宣教師たちが個々に聖書の翻訳を試みたが、72年の宣教師会議で委員会を組織して聖書を翻訳することを決定した。翻訳委員たちが翻訳にあたり根拠とした聖書は、ギリシア語聖書と欽定訳の英文聖書だった。しかし日本語訳にあたっては、中国語訳を参考にしたため、漢文力のある二人の日本人補助役、奥野昌綱と松山高吉の果たした役割は極めて大きい。

 いまや日本語となった新約聖書の言葉としては、「聖書」「福音」「義人」「預言者」「天使」「異邦人」「狭き門」「使徒」「十字架」「復活」などが挙げられる。

異邦人(いはうじん)

 ヨルダンの外(むかふ)の地異邦人のガリラヤ (元訳、馬太伝四・十五)〔…〕

 イエスの時代、ガリラヤは『異邦人』の地とされた。この『異邦人』という言葉も『言海』にはないが、中国語訳聖書にはある。

 有島武郎の『生まれ出る悩み』(一九一八)には画家志望の青年が生業の漁業に従事しながら、仲間の会話になじめず『自分が彼等の間に不思議な異邦人である事に気付く』場面が描かれている」

復活(いきかへ)

 死(しに)たる者は復活(いきかへ)され貧者(まずしきもの)は福音を聞(きか)せらる (元訳、馬太伝一一・五)〔…〕

 中国語訳聖書では『復活』はなく、「死者甦」とあるのみである。〔…〕

 このように『復活』はもともと聖書用語であったが、『言海』にある『蘇生』という言葉が、ただ『ヨミガへルコト、イキガへルコト』であるのに対し、『復活』には新たな活力が付加されたような語感が受け取られる。

 そのためか、この言葉はスポーツ界の記事で目にすることが多い」

 旧約聖書からは主に詩編から言葉が取り込まれた。一般の信徒には日曜礼拝ごとに新約・旧約聖書を持参するのが負担だったため、『新約全書』が1880年に刊行されるとまもなくして『新約全書 詩編附』が刊行された。そのため詩編の文章や言葉も日本語のなかに取り入れられていったのだ。「死のかげの谷」「ふかき淵より」といった言葉が著名な文学作品に現れ、日本語化していった。

 著者は「日本語になった聖書語」の特徴を、「世界観の拡大」「人間観の転換」など6項目にまとめて論じる。例えば「隣人」という言葉は、文字通りの「お隣さん」という意味だけでなく、広く他国人まで含めた人類を指す言葉へと変化した。また、「一粒の麦」「地の塩」など、一見、小さく無用なものが実はなくてはならないものであると教える言葉もある。人間観や価値観を転換、あるいは転倒させるのが聖書の言葉の特徴だ。こうした言葉が日本に定着したということは、日本人の世界観を大きく変えた証左となる。

 「以上に述べたことからわかるように、日本におけるキリスト教信徒の数は、隣の韓国が今やキリスト教国になっているのに比し、いまだ総人口の一パーセント前後にとどまっている。それに反して、このような壁を乗り越えて普及している書物が聖書にほかならない。その結果が、本書でみたように『聖書語の日本語化』をもたらしたのである。こうして、聖書語は、もはや単なる外来語から日本語として定着し、日本人の精神世界の奥行きをひろげ、豊かにするために大きな働きを果たしていると言ってよい」(「結び」)

 『日本キリスト教歴史大辞典』(1976年)から『日本キリスト教歴史人名辞典』(2020年)まで編集委員を務めた著者は、日本キリスト史研究の第一人者。これまで学問的な内容の中に主観的・個人的な言及はしないことを心がけてきたが、本書ではその長年の自己規制を解除して、あえて逸脱する言及もしたという。その点がむしろ、長年の読者にはたまらない魅力となるだろう。

【3,300円(本体3,000円+税)】
【教文館】978-4764261679

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