【書評】 『考古学からみた筑前・筑後のキリシタン』 西南学院大学博物館

キリシタンといえば九州が思い浮かぶが、イメージされるのは世界文化遺産に登録された長崎や天草ではないだろうか。しかし、古代から大陸との交流拠点として栄え、キリシタン時代にはキリシタン大名が領した筑前・筑後(現在の福岡県)にも数多くのキリシタン遺物・関連史跡が存在する。これまであまり注目されてこなかった福岡のキリシタンにスポットをあてた西南学院大学博物館企画展「考古学からみた筑前・筑後のキリシタン」は好評を博し、本書はその図録として作成された。展示品に詳細な解説を加え、研究者による論考3編を所収。長崎・天草と連動しつつも、異なる地域性をもったキリシタンの姿を映し出す。
「1549(天文18)年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝来した。1551(天文20)年には、大友義鎮(宗麟)によって豊後府内でキリスト教の布教が許可され,1554(天文23)年には教会用地が与えられた。また,当時,事実上大友氏の勢力圏であった博多においても1557(弘治3)年に教会用地が与えられており,布教活動がはじまったとされる。その後,博多のほかに久留米や秋月にも教会が建てられ,宣教師らが活動を行っており,筑前・筑後でのキリシタンの様子を示す遺物(キリシタン遺物)が福岡県内の各地から出土している。
本展覧会は、おもに福岡県内の遺跡から出土したキリシタン遺物をもとに筑前・筑後のキリシタンの実態について紹介するものである。〔…〕周辺地域でのキリスト教受容の状況や, 筑前・筑後のキリシタンに与えた影響などについて紹介したい」
筑前国は現在の福岡県北西部、筑後国は福岡県南部で、福岡県の大部分を占めていた。イエズス会の記録によれば、この圏内に存在する博多・秋月・甘木・久留米・柳河(柳川)の町に教会やレジデンシア(司祭館)がいくつも設置されていた。JR博多駅の北にある小学校校地(博多遺跡群)からはメダイ(メダル型の信心具)2点と十字架、さらにメダイの鋳型1点が出土した。これらの遺物は、布教によってキリシタンが増え、メダイや十字架が制作されるほどになっていたことを物語る。
「資料番号8 ヴェロニカのメダイと十字架鋳型〔…〕
『ヴェロニカのメダイ』は,表面にイエス・キリストの聖顔,裏面に聖母子像が描かれたメダイである。メダイ鋳型中央部分に,茨の冠が表現されたキリストの顔が確認できる。製品は日本国内にのみ4点確認されているが,鋳型についてはこのほかに例がない」
博多での布教は大友義鎮が教会用地を与えたことに始まるとされるが、相次ぐ戦乱で荒廃。教会の再建は、黒田孝高(如水)・長政父子の博多入りまで待たなければならなかった。また、徳川家康の反感を買うことを恐れた初代福岡藩主の長政は、外観上、普通の民家のように見える教会を建てるよう指示した。1602年に教会が完成すると、祝日には筑前一帯だけでなく、隣国である筑後や豊前からもキリシタンが集まってきたという。
一方、筑前の秋月は、黒田孝高の弟で熱心なキリシタンであった直之の支配するところとなり、1604年にレジデンシアが設置され、キリシタンが最盛期を迎えた。
「資料番号14 罪標付十字架浮文軒丸瓦〔…〕
二支十字架文が表現された軒丸瓦。秋月城跡(現在の秋月中学校付近)から見つかった。十字架上部の左右にのびる部分はイエス・キリストの罪状書き「INRI」が記された箇所であるため,十字架の下部にある波状の装飾がゴルゴダの丘を表すと考えられている」
筑後の久留米も、キリシタン大名毛利秀包の所領となり、キリシタン文化が栄えた。大友義鎮の娘で秀包の妻となったマセンシアは特に熱心な信徒で、夫婦でキリシタンの保護に尽力した。久留米城下には、秀包によって1600年にレジデンシアが設置され、城のすぐそばに教会が建てられていた。それとは別に、信徒たちによって建てられた教会がもう一つあり、その頃、久留米には二つの教会があったとされる。
「■久留米城下町遺跡第2次調査で検出された推定教会建物跡とキリシタン関連遺物
1991(平成3)年から翌年にかけて行われた久留米城下町遺跡第2次調査(両替町遺跡)では,教会跡と推定される建物遺構と,それに伴うキリシタン関連遺物が出土した。なかでもよく知られるのは,中央に十字架文が施された軒平瓦(資料番号15)である。また近年,遺物再整理作業の際に,花弁状のロザリオ玉(資料番号16-2),花十字文のような意匠が施された染付碗の底部(資料番号17)などが新たに発見された。本展では,久留米市教育委員会のご厚意により,それらの未発表資料を初めて展示公開する」
一時は栄えた筑前・筑後のキリシタンであったが、黒田孝高の死から5年後、1609年に直之が死去すると、キリシタンは一気に後ろ盾をなくした。藩主・長政はやがて禁教政策に踏みきっていく。駿府での家康謁見から帰国した長政は、1613年4月、教会の取り壊しと司祭の追放を命令。14年からはキリシタン摘発のための宗門改めが行われるようになった。
「■福岡藩における宗門改めの開始
1614(慶長19)年には,福岡城下に住むキリシタンの武士を智福寺(福岡市中央区)に集め、福岡で初めて宗門改めが行われた。この宗門改めで改宗に従わない者には、無理やり署名させるかまたは役人が署名・捺印を行い,書類上宗門を改めたという事にしたといわれていて,かなり事務的なものであったとされる。しかし、頑なに改宗に従わなかったキリシタンが2名おり,彼らは松の木に逆吊しにされ拷問を受けたのち,斬首刑となり,福岡で最初の殉教者となった」
智福寺があったと推定される地には、現在、水鏡(すいきょう)天満宮が建てられている。福岡一の繁華街「天神」の地名は、この水鏡天満宮に由来する。今後、再開発事業により水鏡天満宮は那珂川沿いに移設される見通しだが、当地が福岡で初めてのキリシタン殉教地であることは記憶に残したい。
筑後といえば、潜伏キリシタンが信仰を守り続け、長崎同様、復活したことも特筆される。現在の三井郡大刀洗町今にいた「今村キリシタン」だ。キリスト教禁令の高札が撤去されると、復活した信徒たちが力を合わせて木造の教会堂を建て、1913年にロマネスク様式の天主堂が建設された。鉄川与助の設計施工による、このカトリック今村教会(今村天主堂)は2015年、国の重要文化財に指定された。2017年にはローマ教皇大使の司式により、今村信徒発見150周年記念ミサが捧げられた。
「キリシタン」のイメージが薄い福岡県だが、近年の発掘によりキリシタン遺物が出土し、教会遺構も検出された。潜伏キリシタンの復活という世界遺産登録の決め手となったストーリーは、この地でも連綿と紡がれてきたのだ。福岡県は九州の中心地だが、「キリシタンの地」としてほとんど認知されていなかった分、伸びしろのあるエリアといえる。同時に、筑前・筑後のキリシタンが多くの人の関心を呼び起こせば、より広範な発掘、研究の促進も期待されよう。
【1,100円(本体1,000円+税)】
【西南学院大学博物館】978-4910038704