【書評】 『湯浅八郎の留学経験 アメリカにおけるキリスト教国際主義との出会いとその影響』 辻 直人

 同志社総長、国際基督教大学(ICU)初代学長などを務め、キリスト教教育の分野で大きな功績を残した湯浅八郎については、同校の卒業生であっても詳しく知らないという声を聞く。湯浅の評伝研究は、ICUの同僚であった武田清子による著作があるものの、少ないというほかなく、詳しく知ろうとしても知る術がなかったからだ。

 著者は10年あまりかけて海外に残る湯浅関連史料を調査し、湯浅が留学したイリノイ大学で新史料を発見。これらの史料から、これまでほとんど知られていなかった湯浅の留学時代を明らかにするとともに、海外生活での経験を生かして、戦争の時代に、湯浅がどのように日本社会に働きかけようとしたのかを考察する。

 「八郎という名前から推測できるように、湯浅八郎は一八九〇(明治二三)年四月二九日、湯浅家の八番目の子(五男)として赤坂の自宅で生まれた。きょうだい総勢一四人の大所帯だった」(第一章 渡米まで)

 父、湯浅治郎は新島襄から受洗して、安中教会の創設メンバーともなった、明治期を代表する牧師のひとり。母の初子は、熊本でL・ L・ジェーンズから感化を受け、弟の徳富猪一郎(蘇峰)と一緒に同志社で学んだこともある女性だった。八郎は「育った家庭は、清教徒的キリスト教主義で、きわめて質素、厳格だった」と述べている。クリスチャン・ホームに生まれた場合、教会に通うことや聖書を読むことは自然なことだ。信仰が受け身でなく自分のものになるには、本人がキリストと出会い直す必要がある。その経験を、湯浅はアメリカ留学において経験することになったと、著者はいう。

 「湯浅八郎は同志社普通学校を一九〇八(明治四一)年、一八歳で卒業した後、単身アメリカに渡り、一九二四(大正一三)年に帰国するまでの約一六年を欧米で過ごした。こうした長期にわたる海外経験が、湯浅の国際感覚形成により直接的に大きな影響を与えていると考えられる。中でも湯浅のイリノイ大学留学時代(一九一六-一九二〇年)、特に大学YMCAでの活動からの影響は非常に大きなものだった」

 渡米してから3年間はカリフォルニアの農場で働く苦学生だった。この時期は、アジア出身者を地域から排斥しようとする動きもあった。湯浅は「人間は学問をしなければならない。教育が人間には必要だ」と痛感し、大学進学を決意。研究補助の仕事をしながら、カンザス州立農科大学を卒業し、イリノイ大学大学院へと進んだ。大学院で昆虫学の研究を行った湯浅は、1917年に修士号を、20年に博士号を取得した。「入学以来、ずっと奨学金をもらって勉強しました。苦しくはあったが、自分の専門ですから非常に楽しくもあるし、勉強いちずにやっておりました」と湯浅は回顧している。

 また、イリノイ大学でYMCAの活動に参加したことが、湯浅の信仰を新たにする機会となった。イリノイ大学史料室に以下のような湯浅の手記が残されている。

 「私は三代目クリスチャンとして日本からアメリカに来た。私のアメリカ体験は、大学での課程を終える頃であり自らのキリスト教信仰を失っていた時期であった。私はイリノイ大学に科学博士の学位を受けるための研究をする目的で来た。ここでのYMCA活動を通じて、私はキリストを再発見した。私は、YMCAに対して永遠の負い目を負うこととなった。(一九三九年三月一八日)」

 ここでいう「永遠の負い目」とは、「永遠に感謝すべき恩義」とでも言い換えられるだろうか。アメリカ人家庭への招待や、YMCAのデモイン集会で世界各国の人々と接したことが、湯浅のその後の方向性を確固たるものにしていく。

 「この湯浅の書簡から分かることは、デモイン集会から湯浅はますますキリスト教信仰への確信を回復し、軍国主義や物質主義を克服するために、キリスト教に基づく国際主義を広めたい、仲間と協力して、特に中国朝鮮の人々と兄弟愛を持って友好な関係を築いていきたい、という熱い思いに到達した、ということである」(以上、第三章 湯浅八郎の国際感覚に対するアメリカ滞在の影響)

 1924年に帰国した湯浅は、京都帝国大学農学部教官に着任し、教授として約11年間を過ごした後、35年に同志社第十代総長に就任。だが、配属将校らとの衝突による「同志社事件」が起こり、37年に引責辞任。戦時下の激動の時代には、湯浅も国家主義的・軍国主義的発言を表明せざるを得なくなっていたが、神社参拝を「良心的に拒絶するも何等非難せられるべきものではないと信ずる」と言い切るほど、正直で率直な人物でもあった。

 同志社を辞め無職となった湯浅は38年、賀川豊彦、河井道ら二十数名と日本のキリスト教界代表としてインドへ渡り、世界宣教会議に出席した。その成果をアメリカで報告してほしいとの依頼を受け、39年に渡米。滞在中に日米開戦の火ぶたが切って落とされたが、湯浅は自らの意志で46年10月までアメリカに残り、会衆派信徒たちとの交わりを深めた。

 「湯浅八郎の戦時下の行動は、一貫して会衆派教会とアメリカン・ボードの推進したエキュメニカル運動に協力し、民族も国家も超えた人間の連帯を目指すためのものだった。……また、狭いナショナリズムを超えて広い世界的視野で平和を考えるキリスト教的活動に強く共感し、キリスト教国際主義の実現こそが、戦後の世界平和の鍵と考えていたのだった。その精神が戦後の同志社や国際基督教大学での教育活動にも生かされることとなった」(第五章 戦時下における湯浅八郎のアメリカ滞在の実態)

 帰国の翌年47年に、湯浅は同志社第12代総長に返り咲き、新島学園中学校・高等学校の初代校長に就任。50年、ICU開学に伴い同志社総長を辞任し、53年から61年までICU初代学長を務めた。

 湯浅が一貫して掲げ続けた教育理念は「民主」「平和」「国際主義」「教育の土台としてのキリスト教」であろうと著者は総括する。湯浅がそうした理念を育んだのはアメリカだったが、現在、アメリカにおけるキリスト教は、以前とは様相を一変させている。自国ファーストや移民排斥を声高に主張する政治家が存在感を増し、教会もまた多様性に不寛容な態度をとる場合がある。他国に範を求めることのできない状況で、日本社会はどこに向かっていくべきか。湯浅の思想から何を引き継ぎ、どう現代に適用できるのか。湯浅の願った「民主」「平和」の時代となったはずの今、再び問われている。

【4,070円(本体3,700円+税)】
【教文館】978-4764274679

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