【書評】 『面白くて眠れなくなる日本語学』 山口謠司
日本語の文章では、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字などの文字を駆使して言葉のニュアンスを伝えようとする。なぜ日本語は、こんなに多様な文字の種類を持っているのだろう。「こんにちは」の「は」は「ワ」と発音するのに、なぜ「わ」と書かないのか? 「ら抜き言葉」は言葉の乱れか? AIはニュアンスを伝えられるのか? など、日本語にまつわる謎は尽きない。フランス留学、ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員を経て、現在は日本の大学で教鞭をとる著者が、自らがハマった日本語の不思議と面白さを解説。学術成果をふまえつつ、平易な語り口で、何気なく使っている日本語を解説。その奥深さに気づかせてくれる。
日本語は古代から現代まで変化し続けてきた。フランス語では「Hの発音をしない」ことが知られているが、1300年ほど前の日本人も「ハヒフヘホ」の発音ができなかった。
「『母』は『パパ』、『日本』は『ニポン』、『藤原不比等』は『プディパラノプピチョ』と呼ばれていたのです。
韓国の人が『コーヒー』を『コピー』、フィリピンの人が『フィリピン』を『ピリピン』と発音するのと同じです。
じつは、現代日本語の『ハヒフヘホ』という発音は、奈良時代まで遡ると『パピプペポ』と発音されていたのです。
『パピプペポ』が、現代の我々が発音する『ハヒフヘホ』に変わるのは江戸時代になってからです。〔…〕
のどかな春の朝、子どもがお母さんに向かってこんなことを言っています。
『パパウェ、パティァケのパナがピラきまツィティア(母上、畑の花が開きました)』
沖縄や宮古、八重山方言では『針』を『パリ』と発音します。
これは、奈良時代の『パピプペポ』がそのまま残っているからなのです」(PartⅠ 変わり続けるが話しことば)
翻訳に関する章では、原始キリスト教や史的キリストを論じた聖書学者の田川健三を取り上げる。
「ぼくが敬愛する研究者の一人に、田川建三という人がいます。新約聖書学の研究者で『イエスという男』『書物としての新約聖書』『新約聖書訳と註』などの名著があります。
田川さんによれば『共同訳 新約聖書』(一九七〇年刊)は、意訳が甚だしくて、読むに堪えないものなのです。
そう思って英仏独訳などと比べると、『共同訳 新約聖書』は何を言っているのかまったく分からないところが多々見受けられます。
田川さんはこう言うのです。
『異質の考え方、異質の思想に出会った時に、異質のまま理解し、尊敬する姿勢が必要である』(『書物としての新約聖書』)
翻訳書で、読みやすい文体だなぁと思うものは、異質の思想を異質のまま伝えてくれないものだと言っていいでしょう」(PartⅡ 日本語と世界のことばのふれあい)
日本語のローマ字つづりについては、そもそもローマ字ではなくラテン文字であることを確認。つづり方には「訓令式」と「ヘボン式」がある。「ヘボン式は、幕末から明治初期に日本にやってきたアメリカ人宣教師、ジェイムス・C・ヘップバーンの考案によるもので、アメリカ人の耳に聞こえる日本語をロー マ字化して書いたもの」で、「訓令式は、イギリスに留学した明治時代の地球物理学者、田中舘愛橘が音韻学の理論に基づいて記号化し」作ったもの。どちらにも甲乙つけがたい欠点があることを説明する。
2020年4月から小学校で英語が必修となった。著者は外国語を学ぶ意義を認めながらも、日本にいて日本語で生活するためにはもっと日本語を学ぶべきだと述べる。それは、言葉を使うことで、人は「心」と「心」を結ぼうとしているからである。
「言語は、一度滅びると、再びそれを再生することはできなくなってしまいます。
そして、言語に依存する自由な発想は、失われてしまいます。
もし、ぼくが佐世保弁をまったく頭の中から掻き消してしまったとしたら、おそらく私らしい発想もなくなってしまうでしょう。
同じように日本語を捨ててしまったら、日本語的な発想も失ってしまうでしょう。
それは、とっても悲しく哀れなことです。
自分らしい発想がなくなるということは、自分はいなくてもいいということになってしまうからです」
日本語は謎に満ちている。使えば使うほど感受性を豊かにしてくれる。だから、もっと日本語を大事にして、「もっと楽しんで活き活きとさせ、日本文化を発展させてほしい」と、著者は本書をしめくくる。
コミュニケーションの道具(ツール)であるだけでなく、道具以上の存在でもある「言葉」。日本語によって運ばれてきた文化を大切にするためにも、アイデンティティを失わないためにも、普段使っている言葉の魅力に気づき、認識を新たにしたい。
【1,540円(本体1,400円+税)】
【PHP研究所】978-4569852836