【書評】 『わたしが「カルト」に? ゆがんだ支配はすぐそばに』 齋藤 篤、竹迫 之 著/川島堅二 監修

 カルトとその問題について扱う書籍は数多くあるが、カルトの元信者でありながら現役の牧師、さらには長年カルト問題に取り組んできた2人による共著という点で、類書とは一線を画す。

 昨年来、連日、その報道や記事が目に入ってもなお「わたしが『カルト』なんかに……?」と考える多くの読者を想定した懸念が、そのまま書名となった。何より「正統」と呼ばれるキリスト教会こそ、この事実を他人事のように見てはいないか。本書はカルトを「ゆがんだ支配構造」と定義づけ、「○○教や××派がカルト」という表象的な語りではなく、誰かの人生から自由を剥奪し、コントロールしようとするすべての組織や思想が「カルト」であるとして、宗教の核心に迫る議論が展開される。

 神はご自分の造られたものの支配を、ご自分が創造した人間に委ねようとされたことが記されています。ここでは、人間は神が造られた世界をどのように支配するかが問われています。

 つまり「支配」とは、人間関係において人々の幸福に寄与すると同時に搾取や破壊も可能とする営みであり、端的に「どのように」という点が重要だという。

 例えば本書で紹介されている「教会健康度チェック」(日本異端・カルト対策キリスト者協議会作成)の分類の一つに「指導者の権威主義」の項目がある。共同体において指導者が自らのハラスメント行為を正当化することを意味するが、この点について

 「カルトとは何か」を考えることは、「支配とは何か」と考えることでもあります。そうなると、カルトは何も宗教だけに限ったことではないことがおわかりかと思います。

と述べる。つまりカルトとはそれ自体が単独で存在するのではなく、私たちの日常生活の営みの延長線、もしかすると目の前にすでに潜んでいる可能性が十分に考えられる。

 具体的にどのような手法が使われている(もしくは無意識的に展開されている)のか。本書はその実例として「ラブシャワー」を紹介する。対人関係を築く序盤の段階で称賛の言葉や丁重な扱いをすることにより、相手を支配下に置く手法である。相手は「受け入れられている経験」を味わうが、カルトはそのような人間の基本的欲求を利用し、本人がラブシャワーを味わうために必要な行為を要求し徐々にトップダウンの支配構造へと組み込もうとする。

 「なぜカルトに入るのか」「そもそも近づかなければいい」という声については……。

 繰り返し述べますが、カルトに入ろうと思ってカルトに入る人はほぼいません。少しでも安心して将来に希望が持てる社会づくりをしたいと志している人たちが、かえってその願いにつけ込むさまざまな偽装勧誘にさらされます。いわゆる「意識の高い人」ほどカルトに狙われています。「せめて家族の幸せを」と願う人たちが、その祈りを悪用する霊感商法の餌食になっているのです。元来は不正のない社会を目指していた真面目な人々が、その願いとは真逆の活動によって搾取され続けています。

 現代は「ストレス社会」と称されるほどに他者の軋轢や生きることで発生する摩擦係数が大きい。その中で自分の心の拠り所や指標として、宗教やそれに類する共同体に所属することはおかしなことではない。しかし、所属するとは同時に自らの人生を委ねることでもある。ゆえに私たちは被害者と同時に、それを是認する加害者にも容易になり得る。

【1,650円(本体1,500円+税)】
【日本キリスト教団出版局】978-4818411340

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