【書評】 『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』 藤原聖子 編
よく「日本人は無宗教だ」といわれる。結婚式は教会で、葬式は仏式で行ったかと思えば、年末にはクリスマスを祝い、年が明けたら初詣に出かける。最近ではハロウィンとイースターも日本の歳時記に加わった。いや、日本人は無宗教ではなく多神教だ、あるいはアニミズムだという見方も存在する。その一方で、無宗教の割には宗教がらみの事件が多いと指摘されている。キリスト教界では、なぜ日本にキリスト教が広まらないのかという話に接続され、その一因に挙げられることもある。いったい日本人はどんな宗教性を持っているのか。無宗教だといつから言われるようになったのか――?
日本人無宗教説に関してこれまでさまざまな議論が繰り広げられてきたが、本書はその一つの回答になり得る。東京大学宗教学研究室に所属する宗教学者・若手研究者が、開国から現在に至るまでの「日本人無宗教説」を新聞記事から分析。日本人無宗教説の内実と変遷をデータを元に詳しく振り返る。
分析にあたり、〈欠落説〉〈充足説〉〈独自宗教説〉という三つの類型を用いるのが本書の特徴。類型に分けることで、日本人無宗教説の多岐にわたる主張・内容が整理され、時代背景と比較しやすくなる。〈欠落説〉は、「日本人は無宗教だから□□が欠けている」と論じるもので、それに対し、「無宗教で何が悪い」「むしろ無宗教の方がよい」と主張するのが〈充足説〉。それらと異なり、「日本人は実は無宗教ではない」「自然と共生する独自の宗教伝統がある」と考えるのが〈独自宗教説〉である。
「日本人無宗教説は、開国による欧米のキリスト教徒、特にプロテスタントとの接触から始まった。日本人の宗教状況を書き記した欧米人の多くは近世以来の儒学教育や仏教の衰退による上流階級の『無神論』と下流階級の『迷信』を指摘し、『文明』の象徴としての『religion』に日本人が無関心だと考えた。
それを受けた日本人の側では一九世紀後半のあいだ、欧米に追いつくための『文明』化に 『宗教』が必要か、それとも不要・有害かという二つの立場が拮抗した。……『宗教』こそ必要だとする〈欠落説〉がキリスト教や仏教との関係で説かれたのに対し、『無宗教』のままでよいとする〈充足説〉は西洋の無神論や儒学・神道と結びつきながら勢力を伸ばしていった」(第一章)
キリスト教を基準とする「宗教」理解では、神道は「宗教」とは認められなかった。日本人無宗教説を考えるとき、明治政府が神道を非宗教だと強弁したことが日本人の無宗教意識を決定づけたと説明されることがあるが、神道非宗教という制度は、当初は、このような「宗教」「非宗教」の線引きから、それを利用して成立したものだった。
戦時中は、宗教は国力や戦力を高めるものだという考えが大勢を占めたが、戦後は、宗教は平和をつくるものだという考えに転換した。1964年、観光目的での海外旅行が自由化されると、入国審査で「無宗教」と書いたら欧米では警戒されるという現代的な語りが定着していく。80年代になると、哲学者・梅原猛が日本固有の信仰は縄文時代のアニミズムだとする説を提唱し、〈森の思想〉が人類を救うと主張した。その結果、〈日本人は無宗教ではなく、キリスト教のような宗教とは対照的なアニミズムという伝統をもつ〉という説が広がっていく。
95年、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こると、宗教に対するイメージが大きく低下する。「私は無宗教です」と言えばまともな人間だと証明できるような風潮さえ生まれた。翌96年、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』が出版されると、日本人の宗教観をよく説明していると評価されベストセラーになった。
「阿満は、日本人の『ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守にたいする敬虔な心』を『自然宗教(自然崇拝ではなく自然発生的宗教の意味)』と呼ぶ。自然宗教もキリスト教に劣らずれっきとした宗教であるにもかかわらず、日本人が自分たちを『無宗教』だと思うようになったのは、近代において『宗教』の語をキリスト教を典型とする創唱宗教を意味するものとして受容したため、またその語が政治利用され、宗教観が『痩せ』てしまったためだという」(第五章)
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生すると、日本人無宗教説にも変化が起こる。それまでは、日本人の無宗教性を語る際に比較対象として挙げられるのは主に西洋のキリスト教だった。しかし9・11後は、イスラムと比較して日本人の無宗教性を論じる傾向が強くなる。また、「一神教は排他的で攻撃的だが、日本の無宗教は安全だ」「多神教やアニミズムは寛容で平和だ」といった説が出回る。こうした説は70年代から見られたが、9・11を契機に一気に拡大した。
「戦後五〇年少々で、無宗教説は〝日本人は無宗教だから残虐だ〟から〝日本人は無宗教だから平和だ〟に反転した。前者は〝隣人愛のキリスト教〟の反対、後者は〝攻撃的なイスラム〟の反対という、それぞれ一面的な宗教観に基づいていた」(第六章)
「おわりに」で編著者の藤原氏は、どの時代にも誰かが「日本人は無宗教だから、重要な□□が欠けている」と論じていたことを指摘。時代が変わるとその□□に入るものがころころ変わるという無宗教説の系譜からは、「人は、世間に大いに反省を促したいことがあると、その時その時の論理を使って『無宗教』をその一因としてきたのだということがわかった」と結論づける。無宗教説は、細かい説明抜きに自分の主張を他者に伝えるのに効果的手段であるため、明治期以降ずっと使われてきた、人気の論法だったのだ。したがって、これからもその時代に合わせた〈欠落説〉〈充足説〉〈独自宗教説〉が展開されると考えられる。
「無宗教」を引き合いに出して何らかの主張がなされているときには、そこから一歩離れて、「無宗教」だからそうなのかを考えてみる姿勢が必要だ。過去の事例を頭の片隅に入れておくだけでも、その論法に巻き込まれずに相手の主張を客観視することができよう。
また、日本では「宗教」という概念そのものを見直す必要もありそうだ。従来の「宗教」概念は、西洋キリスト教をモデルとしたもので、明確な「〇〇教」への意識的な所属を宗教らしい「宗教」と見なす。たとえば「カトリックであればプロテスタントではない」といった線引きを前提とし、宗教的な思想・伝統の重複を想定していない。しかし、日本にはそうした「宗教」概念の枠組み自体が当てはまらない。
これまでの日本人無宗教説を参照し、日本における「宗教」を問い直すことで、日本人の宗教性をより正確に把握できるようになるに違いない。
【1,870円(本体1,700円+税)】
【筑摩書房】978-4480017734