【既刊再読 改めて読みたいこの1冊】 『潜伏キリシタン図譜』 潜伏キリシタン図譜実行委員会 編

 2021年、満を持して発刊された『潜伏キリシタン図譜』。計画から5年、プロジェクト立ち上げから3年半の歳月をかけ、多数の識者によって執筆された本図譜は、潜伏キリシタンの信仰を支えた信心具・関連遺物を時代背景とともに紹介。刊行から2年が経った今も、プロジェクト達成の快挙を歓迎する声が絶えない。

 本図譜の特長は、キリシタン側のみならず、彼らを取り締まった為政者側の資料や信徒から没収された物品まで集め、個々の図版として掲載していること。地域別にキリシタン史を照覧できる点も高く評価されている。収録遺物約1500、ページ数800ページに及ぶ本図譜は1千部限定で発行され、各部に通し番号が振られている。

 巻頭の教皇フランシスコによる「発刊によせて」にはこうある。

 「本プロジェクトは極めて高い価値を有します。世界に広がる共同体、就中、信仰をもつことを理由に差別されているキリスト教ほか諸宗教の共同体は過酷な弾圧が続いた260年間、数々の困難にもかかわらず、祈りと洗礼を守り続けた日本の潜伏キリシタンたちの人生から、慰めとインスピレーションを得ることが出来るからです。

 潜伏キリシタンの歴史は、日本の教会の歴史にとってだけでなく、日本社会全体の歴史にとっても重要です。……全ての違いを超えて、人を兄弟姉妹として愛することは、恐らく、迫害下にあって潜伏キリシタンたちが学んだ多くの教訓の一つと言えるでしょう」

 続いて高祖敏明氏による「刊行の言葉」、五野井隆史氏の総論、前田万葉氏のコラム。本文全体は第1章「九州地区」~第6章「東北・北海道地区」で構成されている。以下、解説文を一部抜粋して紹介したい(カッコ内は分担執筆者)。

 「長崎:遺物32「マリア観音像

 潜伏キリシタンがサンタ・マリアのイメージを求めて、実際に祀って祈っていた中国製白磁観音像をのちにマリア観音像と呼ぶようになった。潜伏キリシタンたちが祀っていたという由緒があって初めてマリア観音像ということができる」(片岡瑠美子)

 「大分:遺物10「銅鐘(サンチャゴの鐘)

 岡藩主中川清秀、秀政、秀成を祭神とする中川神社(竹田市大字拝田原)に伝わる銅鐘である。……この銅鐘の表面には十字章が陽刻され、さらに「HOSPITAL SANTIAGO」と「1612」の文字が陽刻されている。……この長崎の銅鐘が、なぜこの竹田の地にあるかは明らかではないが、一説には、府内藩主竹中采女正重義により長崎からまず府内へ運ばれ、その後岡藩主中川内膳正久盛の手で竹田へもたらされたとされている」(後藤晃一)

 サンチャゴの鐘の所在地である竹田市には、人気観光地の竹田市洞窟礼拝堂(大分:遺物18)もあるが、こちらに関しては、宣教師が隠れた場所とする根拠がないと松田毅一氏が明確に否定していることを解説文で紹介。五野井氏もイエズス会年報の記録を元に、宣教師が隠れていた場所は特定できないとする論文を発表していることを記している。竹田市洞窟礼拝堂が県指定史跡となったのは1958年のことであるが、その後の研究によって否定・修正された点まで記載されているところに本書の有用性がある。

 京都にはキリシタン時代に教会が3カ所あったとされるが、第3章 第2節では、「フランシスコ教会跡(京都:遺物7)」「イエズス会上京教会跡(京都:遺物8)」「慶長時代のイエズス会下京教会跡(京都:遺物10)」をそれぞれ古地図や文書の図版を示して解説。各教会の推定地と関係者、どのようなことが行われていたかを浮かび上がらせる。

 「京都:遺物10「慶長時代のイエズス会下京教会跡

 イエズス会下京教会の新築が進められたのは、ペドロ・モレホンがニェッキ・オルガンティーノから都教区長職を継いだ2年後の1605年(慶長10)のことであった。……かの林羅山も1606年(慶長11)に教会を訪ね、そこで修道士ファビアン不干斎と種々議論をした折にキリスト像、地球儀、プリズムなどを見ていたとの記録もある。この教会の近所では、ジュリア内藤がオルガンティーノとモレホンの認可・指導下で組織した女子修道会も活動していた」(阿久根晋)

 従来考えられていた説に対し、近年、疑義を呈されるようになった場合には、従来説の根拠と、信ぴょう性が疑われるに至った理由を説明。読者が自ら検証できるよう、参考文献や資料名を付している。

 「宮城・岩手:遺物7「米川のキリシタン史跡

 登米市東和町米川に三経塚(旧登米郡狼河原村)がある。三経塚の名の由来は、享保年間 1716年~35年)キリシタン殉教者の遺体を海無沢、朴の沢、老の沢の3ヶ所に約40体ずつにわけて経文とともに埋めたことにあるという。米川は大籠(一関市藤沢町)に隣接しているが、この米川の大殉教の話は大籠の大殉教から約80年後のことである。

 この説の根拠は、米川の網木の沢の岩城屋敷の小野寺藤右衛門宅から1954年(昭和29)に発見された『老聞並に伝説記』一巻中の「三経塚の由来」の項の次の記載……。この史料が発見されるまでいかなる記録史料も、大殉教の伝承さえもなかったことから、検証の余地が残されていると思われる」(大沢慶尋)

 分担執筆者が歴史学の観点から検証の余地に言及している一方、同地域の来歴不明な「キリシタン遺物」も掲載されている点には、疑問を呈せざるを得ない。以前、カトリック米川教会に保管・展示されていた懸仏、キリスト像、マリア観音像など8点がすべて図版とともに掲載されているが、これらの来歴は1点を除き不明で、唯一来歴が判明しているマリア像も、旧蔵者が昭和に入手したもの。代々伝わってきたものではないという。

 それでも本図譜に所収したのは、キリシタン遺物でないと明言できるもの以外はできるだけ収め、今後の研究に委ねようという編集方針からのようだ。「あとがきにかえて」で伊藤玄次郎氏は以下のように述べる。「今の今の時点で収録できているものを遺漏しないように努めた。しかし、刊行後に更なる発見があると思われる。また記載した遺物の中には現時点では評価が十分に定まらないものもある。しかし、後世への研究への足掛かりとして収録したことをご理解いただきたい」

 本プロジェクトの特色は、学術研究者のみならず、郷土史家を多く起用していることだ。近年、海外ではパブリック・ヒストリーの試みが広がりを見せ、学者だけでなく、自由な発想のできる一般の人々に議論に加わってもらい、協働することで地域の活性化に役立てることが模索されている。その際の課題は、「学術的に誤った解釈」が非専門家から寄せられたときにどうするかだが、本プロジェクトではキリシタン研究の第一人者たちが監修することで課題を克服しているのかもしれない。

 一方で、分担執筆者の中には、学術的には認められていない基準でキリシタン遺物認定を行う団体の会員が名を連ねており、彼らは本図譜の執筆者であることを示して自身の活動を展開する。本プロジェクトの取り組みや成果は評価できるとしても、結果的に同会(会員)の言説や独特な基準による「キリシタン遺物」認定にお墨付きを与える形となったことには懸念が残る。

 本プロジェクトの成功に続き、「天正遣欧少年使節」図譜刊行のプロジェクトが始動し、現在、クラウドファンディングを行っている。教皇フランシスコによる直筆メッセージも届くなど、内外からの期待も大きい。世界を見た4少年の旅路をどのように描き出してくれるのか。今から刊行が待ち遠しい。

「天正遣欧少年使節」図譜 刊行プロジェクト 〝信仰とロマンを後世に〟鎌倉の出版社が挑戦 2023年6月21日

【110,000円(本体100,000円+税)】
【かまくら春秋社】978-4774008226

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