【書評】 『唐 東ユーラシアの大帝国』 森部 豊

 西暦618年から約300年にわたりユーラシア大陸の東部に存在し、日本の国家形成期に多大な影響を与えた唐。阿倍仲麻呂や最澄・空海など、遣唐使船に乗って渡った留学生(僧)も多い。日本は漢字を通して唐から進んだ文化を受け入れてきたため、唐は中国人(漢人)による「漢字文明」の王朝というイメージが強いが、それは一つの面すぎない。

 唐は文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族からなるハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが鮮卑族の血を引くばかりか、広い国内ではテュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、朝鮮半島出身者など、さまざまな出自の人たちが活動していた。唐の長い歴史の中では、大規模な人的移動も起こり、遊牧文化と中国的古典文化が融合した。近年では、ユーラシア大陸全体を見渡す巨視的な視点から、唐を見直す試みもなされているが、その中でも特にソグド人がもたらした影響に注目が集まっている。

 「そしてもう一つ、 忘れてはならないのが、中央アジア出身のイラン系ソグド人の活動と、彼らが唐にあたえた影響である。従来、ソグド人といえば、商人として『シルクロード貿易』にかかわり、絹の交易に従事したとか、中央アジアから唐へ仏教、キリスト教、マニ教、ゾロアスター教などの宗教を伝える媒介をはたしたなど、経済上、文化上の視点から語られることが多かった。しかし、この二〇年ほどの間でソグド人の研究が飛躍的にすすみ、彼らが、中国王朝の中ではたした、政治・外交・軍事上の役割が明らかになってきた。

 本書では、このような視点をふまえながら、通史的に唐の歴史をながめていくこととしよう」(序章)

 そもそも隋末の混乱の中で李淵(高祖)挙兵した時、ソグド人のコロニーが協力し、兵士として従っていた。続く李世民(太宗)の治世に、タシュケント出身のソグド人首領 石万年に率いられて七つのオアシス都市が唐に服属してきた。太宗の妃で中国史上唯一の女帝となる武則天は、皇帝即位後に道教への傾斜を強くするものの、仏教そのものは否定せず華厳教学の法蔵をブレインにしたが、法蔵もまたソグド人だった。法蔵だけでなく、この時代の仏典翻訳に参加した僧の多くが中央アジア出身の「胡人」で、武則天が建造したモニュメント「天枢」の建設事業の中核も担った。膨大な建設費用も「諸胡」が集めたという。当時、「胡」とはソグド人を指していた。

 「この天枢建設の協力者に『波斯国(トハリスタン)の大酋長』の阿羅憾(あらかん)という者がいた。この阿羅憾は、高宗のとき、払林国諸蕃招慰大使となって、トハリスタンのバルフという都市の東にある『払林』と唐朝との境界に碑をたて、『聖教』を宣伝したという。ちなみに、この『聖教』は、高宗皇帝の徳をさすという説とキリスト教であるという二つの説がある。

 ところで、のちの八世紀に長安に建立される有名な『大秦景教流行中国碑』には、武則天と玄宗皇帝の治世にキリスト教排斥のうごきがおこり、これに対し、『僧首の羅含』や『大徳の及烈』がキリストの教えをまもったとある。この『羅含』と阿羅憾を同一人物とみなす説があり、もしその仮説が正しく、また阿羅憾が広めた『聖教』がキリスト教だったとすれば、キリスト教徒が天枢建立に多大な協力をしたことになる。武則天を支えた『胡人』集団には、仏教徒のみならず、キリスト教徒までがふくまれていた可能性もあるのだ」(第2章「武周革命」)

 日本はたびたび唐へ使節を派遣したが、その一人が阿倍仲麻呂だった。唐の国立学校に入学して研さんを積み、科挙(進士)に合格したとされるが、進士科での合格に疑念を抱く研究者もいる。唐の人ですら合格するのが難しい試験科目だったからである。仮に科挙に合格したのだとしても、進士科ではなく、外国人のためにもうけられた特別な試験科目だったのではないかという説が出されている。

 一方、文献史料には記録がないものの、2004年に発見された墓誌によって存在が明らかになった井真成(いのまなり)という留学生もいた。死後、玄宗によって従五品上の官職が贈られている。

 755年から763年にかけて、節度使の安禄山とその部下史思明らによる大規模な反乱「安史の乱」が起きた。安禄山はソグド人の血を引き、「胡旋舞」というソグディアンダンス得意としていた。粛宗は唐が動員できる兵士だけでは鎮圧することは難しいと考え、ウイグル帝国などに救援を求めた。すると遠方にいた反アッバース朝勢力のアラブ兵も参加してきた。

 「アラプ兵だけでなく、中央アジアのソグド人やトハリスタン人なども唐朝軍に参加していた。その中に東方シリア教会(従来、ネストリウス派とよばれていた一派)のキリスト教信者がおり、その数は少なくなかった。粛宗は霊武など五つの郡に大泰寺(キリスト教会)をたてているが、それはこれらのキリスト教徒の兵士の歓心を得るためだった。ちなみに郭子儀の麾下に朔方節度副使の伊斯(イズブジッド)という人がおり、彼もキリスト教徒だった。のち徳宗の時代に、長安の大秦寺境内に『大秦景教流行中国碑』がたてられるが(七八 一年)、イズプジッドはその大施主だった」(第4章「帝国の変容」)

 一時は存在感を増したキリスト教だったが、武宗による会昌の廃仏で、仏教とともに弾圧を受ける。

 「武宗の仏教弾圧のすさまじさは、『三武一宗の法難』の中でも突出しているといっていいだろう。……また、あわせてキリスト教、イスラーム教、ゾロアスター教も排撃された(八四五年)。こうして、唐代に『三夷教』といわれた『景教(東方キリスト教)』『祆教(ゾロアスター教)」『明教(マニ教)』は中国本土から姿を消し、あるいは福建で、またあるいはモンゴルの草原でのこっていくこととなる」(第5章「中国型王朝への転換」)

 ここ20年で進んだとされるソグド人などエスニック集団に関する研究を知ると、中国史をユーラシア大陸全体から捉え直す必要があることが分かる。日本の歴史もまた、アジア全体を俯瞰しながら見つめ直すことで、新たな展望が開けるかもしれない。

【1,210円(本体1,100円+税)】
【中央公論新社】978-4121027429

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