【書評】 『ヘボン伝 和英辞典・聖書翻訳・西洋医学の父』 岡部一興

 日本初の和英辞典である『和英語林集成』(1867年)編纂とその第三版から使われたヘボン式ローマ字、近代文学に影響を与えた文語訳聖書の翻訳など、宣教医ヘボンの成した功績は大きい。ヘボンに関する研究は、高谷道男氏をはじめ多くの学者・キリスト教関係者によって進められてきたが、本書ではそうしたこれまでの研究成果をふまえ、平易な言葉で人間味あふれるヘボンを描き出す。

 著者は高谷氏の薫陶を受け、横浜プロテスタント研究会代表を務めるキリスト教史研究者。高谷氏らが編訳した『ヘボン書簡集』(1959年)に、その後発見された書簡を加えアップデートした『ヘボン在日書簡全集』(2009年)の編者でもある。

 ヘボンの生涯は、日本のキリスト教のあゆみと重なる。ヘボンを通して、日本でどのようにキリスト教が広がってきたのかを振り返ることができる。

 「この年〔1865年〕の一一月五日、横浜で最初の信者となった矢野隆山の洗礼式にヘボンが立ち会った。矢野は、多年鍼灸医者で宣教師たちの日本語教師をし、最初はS・R・ブラウンの教師をし、その後三、四年はオランダ改革派教会のJ・H・バラの日本語教師として働いた。矢野の健康が一年前から衰えてきていた。ヘボンは最善の西洋医術を施してきた。この一一月五日安息日の朝、バラとヘボンが矢野を見舞に行った。その時、熱心に洗礼を志願したのであった。……ヘボンは病床にある矢野の洗礼式に立ち会い、その前にバラが日本語で祈祷を捧げた。『海岸教会人名簿第一号』には矢野元隆と書かれ、括弧して隆山と記載され、間もなく死去した。ちなみに本来の名は元隆であったが、ヘボンはYano Riuzanと書き、バラはYano Riusangと書いている」

 「一八七二年三月一〇日、日本人による最初のプロテスタント教会が創立された。その名を日本基督公会といった。現在の横浜海岸教会である。ヘボンは、前年の一一月から『和英語林集成』(二版)出版のため上海に行き、七二年七月に帰国しているので、この建設式に出席できなかった」

 本書では同時代のカトリックの動向にも目が配られ、「信徒発見」から「浦上キリシタン流配事件」までの一連の流れにも言及されている。

 「これはキリシタンの子孫との劇的な出会いとして、あまりにも有名な出来事である。キリシタンの発見が分かると、長崎奉行は日本人信者を捕縛、いわゆる浦上四番崩れといわれるもので、多くの隠れキリシタンが流刑に処せられ、六年に及ぶ事件となった。

 一八六八(慶応四)年、四〇一〇名のキリシタンが三四藩に振り分けられ移送されて刑に服せられ、一八七三年二月、切支丹の高札が撤去され釈放されるまで続いた。(五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館より)」(以上、第二章「日本の開国、開港、開教」)

 参考文献に挙げられている五野井氏の著書では、当初、政府によって「四〇一〇名のキリシタンが三四藩にふりわけられ」ることが告示されたが、最終的に「都合三三九四名が二〇藩に移送され預けられた」と書かれている。本書ではその内容を短く省略して記述したと考えられるが、読者が「四〇一〇名のキリシタンが刑に服せられた」と誤解してしまう恐れがある。

 聖書翻訳に関しては、ヘボンは来日後、日本語学習と施療のかたわら、個人で漢訳聖書を日本語に翻訳していた。その後、教派を超えた聖書翻訳委員会(社中)が立ち上げられ、ヘボンもその一員に。日本人協力者も加わり、聖書和訳の取り組みが本格的に始動した。

 翻訳委員S・R・ブラウンの書生(当時)であった井深梶之介は、「〔新約の正本は〕ゼームス王欽定英訳(テツキスタス、レセプタス)の原本に依ると定められたように承知する。……日本語訳は英訳の重訳ではなく全く原文を日本語に翻訳したものである」と述べる。つまり、翻訳委員会は英訳聖書などを間にはさまず、原文のギリシア語から直接日本語に訳したということだ。翻訳の完了が1879年だったことを思うと、驚異的な早さで、高い水準の聖書翻訳が行われたことがわかる。

 ヘボン塾と明治学院、明治学院の創立年に関しては複雑な事情があり、明治学院大学のポスターにヘボンの肖像が起用されていたことも相まって、「明治学院の創立者はヘボン」といった誤解が広がっている。本書はそうした疑問にも明確な答えを示してくれている。

 「明治学院は、一八七七年の東京一致神学校の創立をもって明治学院の創立年月日として来た。……その後、二〇〇〇年一〇月の明治学院理事会において、創立年をミセス・ヘボンの学校、すなわちヘボン塾が開始されたところまで遡り、一八六三年を創立年にすることになった。明治学院では、ミセス・ヘボンの学校が、一八七〇年、クララがミス・キダーに生徒を託し、そこでヘボン塾は切れているということもあって、一八七七年の東京一致神学校の創立を原点として来たが、東京一致神学校の伝統を受け継ぐ明治学院神学部が、一九三〇(昭和五)年、植村正久の東京神学塾と合併、現在の東京神学大学となり、神学部がなくなったということもあって、ヘボン塾まで遡った考え方を取ることになったのである」(第四章「ミセス・ヘボンの学校とミッション・スクール」)

 本書の最後はこう締めくくられている。

 「時差はあったが、ヘボンが召されたのと同じ日にヘボン館が炎上、明治学院にとっても忘れることのできない不思議な出来事であった」(第七章「日本との別れ」)

 また巻末の略年表には「一九一一(明治四四)九月二一日午前五時永眠、九六歳。同日早朝明治学院のヘボン館焼失」とある。

 しかし近年、ヘボンの死亡証明書や息子サムエルの電報といった資料から、老衰でほとんど寝たきりになっていたヘボンを医師が最後に診たのが19日の午前1時で、ヘボンの死が確認されたのが21日のmorning(午前中あるいは朝)であることが明らかになっている。この間の何時にヘボンがこの世を去ったのかは不明である。しかし、それにもかかわらず高谷氏によって「午前五時」とされて以来、「午前五時」説がずっと踏襲されてきた。

 さらに、ヘボンの死とヘボン館炎上を結びつけ、「不思議なことだった」とする「語り」も半ば慣習化しているが、ヘボンが晩年暮らした米ニュージャージー州は日本と14時間の時差がある。したがって、もしヘボンの死が現地時間の21日朝だったとするなら、ヘボン館が炎上したときにヘボンは生きていたことになる。

 本書では、「時差はあったが」と付言しているが、「同じ日に」とあり、やはり「不思議な出来事であった」という「語り」で終えられている。一般に、誰かの死を、事件・事故など好ましくない事象とみだりに結びつけてはならないということは社会常識となっている。そこに何らかの力が働いたかのような因縁じみた「語り」が生まれると、故人の尊厳が傷つけられる場合があるからだ。偶然にも日時が完全に「同じ」であったとしても、不幸な事件と誰かの死を関連づけて「語る」のは慎むべきであるが、ヘボンの場合、「同じ」でもない。このようなオカルトめいた「語り」は、そろそろ終わりにしてはどうか。

 本書を入口に、ヘボンに対する関心がかきたてられれば、より一層の研究につながるだろう。そうした研究によって次なるアップデートがなされることが願われる。

【1,320円(本体1,200円+税)】
【有隣堂】978-4896602432

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