【書評】 『わたしの神学六十年』 近藤勝彦

 近年『キリスト教教義学』上・下巻を上梓した著者が、その半生と神学的探求の歩みを自ら振り返った神学的自伝。高校生の時に死の真理を求め洗礼を受け、東京大学から東京神学大学大学院で学び、牧師として教会に仕えながら、ドイツに留学。その後は神学校教師、キリスト教教育者、牧師、神学者として生きた著者の60年の歩みが描かれる。教会や神学校の現場で奮闘しながら、常に神学的認識における問いを追求し続けてきた姿勢が読み取れる。

 著者の集大成である『キリスト教教義学』の神学的視点を考察する上でも、重要になる本書。自伝的叙述であるからこそ、より率直に著者の神学的立場、現代神学への思い、キリスト教教義学において明らかにしたかったことが記されている。2000ページを超える『教義学』の内容を著者自らが短くまとめ、そこで言及し得なかったこと、課題もまた正直に打ち明ける。

 なぜ神学が必要なのか。キリスト教教義学という体系的な神学の営みをなぜ求める必要があるのか。そもそも神を探求するという営みの正当性はどこに求められるのか。キリスト教神学そのものへの問いにも、明確に根拠を示す。それはイエスの歴史的啓示に依るという。カールバルトやブルトマン、パネンベルクらの功績を踏まえつつも、20世紀の神学は19世紀の相対化された歴史学やイエス伝研究史を乗り越えようとするあまり、歴史的イエスの実存から離れてしまっていた側面があると指摘する。

 「神の啓示は全体としての歴史からではなく、むしろイエス・キリストとその歴史という具体的、特殊的な歴史、イエスという歴史的実存とその言葉、行為、そして彼に起きた十字架と復活の出来事の歴史によって示されます。それが神の比類ない活動であって、そこに神とその御旨と御業が示されているからです。啓示はそのようにして、具体的な『歴史的啓示』として理解されるべきであり、そこから教義学が立てられる道が見出されるべきであると、わたしは考えています」(Ⅱ「自著『キリスト教教義学』を語る」)

 歴史的イエスの実存から出発する著者の神学は常に、信仰者の現実的な生き方に焦点を当てる。神の国を意識した世界の回復、歴史的・宇宙論的終末論。これまで欠落していた教義学における伝道論の必要性。プロテスタント神学の課題である生きて働く力としての聖霊論の確立。

 「『歴史的啓示』の主張と『歴史のイエス』を回復することとは一体的な事柄です。そしてそこからいくつかの結論が引き出されるでしょう。一つは神学における『神の国』の回復であり、『伝道』の再発見であり、『聖霊』の強調です。歴史のイエスを回復すれば、その福音の告知であり、イエスがそのためにすべてを傾注した身近に迫った神の国の到来が重大な主題になるでしょう。またそのために民を集め、異邦人もその影響に浴したイエスの宣教行為が主題になるでしょう。そしてイエス自身の召しと祈りと癒し、悪霊の追放に働いた聖霊の力が視野に入ります。キリスト論的であることと聖霊論的であることが乖離するのは、むしろ歴史のイエスを喪失したキリスト論が陥る罠ではないでしょうか」(Ⅲ 「現代の神学と私の立場」)

 教義学とは、教会が教会として立つために必要不可欠な営みであると著者は言う。同時に神学は常に「新しい挑戦」であるとも述べ、教会もまた挑戦を失っては真に教会として立つのだろうかと問う。『キリスト教教義学』とともに、日本を代表する神学者の信仰的歩みと、神学的探求の軌跡を知ることのできる1冊である。

【1,980 円(本体1,800円+税)】
【教文館】978-4764261754

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