【書評】 『平田篤胤 狂信から共振へ』 山下久夫、斎藤英喜 編

 江戸後期の国学者・平田篤胤の没後180年を記念して、『平田篤胤:狂信から共振へ』が刊行された。副題の「狂信から共振へ」は、かつて和辻哲郎が篤胤を「狂信的」と評したことに起因する。「狂信」を同音異義語の「共振」へと読みかえ、篤胤を捉え直そうとする試みにつなげる。執筆陣は各専門分野をもつ15人の研究者。従来の篤胤研究の枠組みを超えた多彩な論考が繰り広げられている。

 第一部では篤胤の「同時代との共振」を山下久夫、中川和明、森和也、今井秀和、鈴木耕太郎、森瑞枝、彌永信美の各氏が論じる。第二部では「時代を超えた共振」というテーマで小川豊生、三ツ松誠、相澤みのり、渡勇輝、齋藤公太、木村悠之介、吉田唯、斎藤英喜の各氏が論を展開する。

 篤胤にはさまざまな「顔」がある。その一つが「民俗学の先駆」としての「顔」。折口信夫が篤胤の著作に見られる仙界や幽冥界、生まれ変わりの少年に関する記述をそう評価したのを機に、和辻の「狂信的な国粋主義者」としての篤胤像は徐々に払拭されていき、今では「篤胤の思想は、霊魂の尊厳を問うものであった」と考えられたりもしている。

 「かかる篤胤への関心の在り方の現状をよく示すのはやはり、『平田国学の伝統』において折口が論拠とした、篤胤の『仙境異聞』であろう。同書は幽界へ往来したと主張する寅吉少年からの聞き取り記録なのだが、もともと板本にもならない作品だった。だがオカルト・ブームや妖怪への関心の高まりの中であらためて注目され、今世紀に入り岩波文庫にも収められ、平成三〇年(二〇一八)には、Twitter上で評判になって再版・新規刊行が続いた。 増版された岩波文庫の帯には『天狗にさらわれた子どもの証言!?』と書かれている」(三ツ松誠「第八章 寅吉をめぐる冒険」)

 ところで、日本で民俗学という学問分野を開拓したとされるのは柳田国男だが、その実父が「平田系の神官」であったことはあまり知られていない。第九章で渡勇輝氏は、柳田民俗学に「国学の流れを汲む発想が基本にある」という先行研究から論を発し、平田派門人の多様性を勘案した「共振」を考察する。

 「ここから柳田の『平田派』認識の一端が、大国隆正流の国学であったことを想定することができる。隆正は、篤胤の世界認識をさらに進めて……現実政治への関与のなかから『万国総帝説』という国際秩序観に深められていくが、それはキリスト教との緊張関係のなかから胚胎した普遍的『神道』の希求であった」(渡勇輝「第九章 柳田国男と『平田派』の系譜」)

 キリスト教との関係では、平田家と原胤昭の関係も興味深い。篤胤の死後、明治初期には平田胤雄が平田家当主を務め、印行社という会社を立ち上げて出版事業を行っていた。印行社ではキリスト教は日本人に適さないとする書物を出版していたが、社主である胤雄の妻の実弟が、キリスト教慈善事業家の原胤昭だった。原が初めてキリスト教に触れた書物は平田家から借用したものだったと、原自身が『福音新報』への寄稿で語っているが、相澤みのり氏はそうした点に着眼して平田家におけるキリスト教に対する認識をまとめている。

 「親類内のことだからよいだろうと銕胤から渡されたのは、『旧約全書』三冊・『新約全書』一冊・『神道総論』三冊・『天道遡原』一冊で、いずれも篤胤没後に刊行された唐本の国禁書であった。その種類や冊数から、銕胤は原の申し出に好意的に応じたにさえ見える。原の回想にも、自身の信仰活動が平田家から問題視されたとする記述は見当たらない。

 篤胤の神学思想にみえるキリスト教の痕跡について はすでに多くの議論があり、本書第十章の齋藤公太による論考に詳しいが、実際のところ平田家にとって、キリスト教信仰は特に忌避する対象ではなかったと考えられる」(相澤みのり「コラム②「明治の平田家、平田胤雄と印行社」)

 第十章で齋藤公太氏は篤胤のキリスト教受容の具体相を概観した上で、その「共振」ともいうべき後世の人々への影響を考察する。その代表は松山高吉や海老名弾正である。松山は銕胤に師事した平田派国学者で、キリスト教を偵察しようと宣教師グリーンに接近したが、逆にグリーンの人格に感銘を受け、心を開けてキリスト教を学び受洗するに至ったという経歴を持つ。

 「松山は大学で日本宗教に関する講義を行ったほか、神道についていくつかの論説も発表している。ここではそれらの論説の内容から篤胤のキリスト教受容の痕跡に対する松山の理解を浮かび上がらせたい。松山の議論の中心にあったのは『日本固有の宗教』の問題である。すなわち松山は世上で『神道』と呼ばれるものとは別に、『日本固有の宗教』があったと考える。一般にいわれる『神道』とは、この『日本固有の宗教』をもとにしながらも、それに後世の『誤謬』を付け加えることで形成された宗教とされる。……

 かくして松山の言説においては、篤胤や気吹舎門人の言説とは異なる形で、『古道』=『日本固有の宗教』がキリスト教と結びつくことになる。松山は篤胤の言説そのものは受け入れなかったが、そこに見られるキリスト教受容の痕跡を別の形で生かしたのである」(齋藤公太「第十章 平田国学とキリスト教」)

 第十一章では木村悠之介氏が、近代における篤胤思想の「意味」変化に注目する。明治24年から45年にかけて、久米邦武・足立栗園・田中義能・木村鷹太郎らによって展開された議論をふまえて、篤胤という存在がどう「意味」を変えられてきたのか、そこで取り込もうとされた「危険」思想とは何だったのかを論じる。

 「木村が神仏耶の『平和的統一』と評した内務省の三教会同が開催されるのは、翌明治四五年(一九一二)二月である。久米事件から二〇年、特にその後半期において、本章で取り上げた人々は服部天游から『出定笑語』を経て『印度蔵志』へという変遷やキリスト教の取り込みに象徴される篤胤の『ゆき方』を多重になぞりながら、『世界』を視野に入れた新たな『宗教』の創出を目指したのだった」(木村悠之介「第十一章 再生する平田篤胤」)

 多くの「顔」を持つ篤胤だが、それは同時に魅力でもある。各執筆者による研究という形での応答もまた、篤胤への「共振」にほかならない。

【6,600円(本体6,000円+税)】
【法蔵館】978-4831862761

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