【書評】 『Dona nobis pacem 皆川達夫先生の想い出』 皆川達夫先生追悼文集編纂委員会 編

 中世ヨーロッパ音楽の泰斗、皆川達夫氏が死去して3年になる中、氏を慕う関係者による追悼文集が編まれた。タイトルになった”Dona nobis pacem”は皆川氏がいつも色紙にしたためた言葉だ。意味は「われらに平和を与えたまえ」――。

 皆川氏は1927年、水戸藩家老の家に生まれ、能楽や謡曲、歌舞伎に親しんだ。東京大学(旧制)文学部西洋史学科に入学し、初めての著書『ヘンデル』を刊行。卒業後は同大学大学院美学科に進学し、修了後、フルブライト奨学金を得て渡米。3年間、コロンビア大学やニューヨーク大学で中世・ルネサンス音楽史などを学んだ。

 帰国すると、立教大学の講師に就任。62年からはフランクフルト大学・バーゼル大学に2年間留学した。その知見を生かして、NHK-FM「バロック音楽のたのしみ」の解説者となり、85年まで担当した。『レコード芸術』音楽史部門の月評も67年から2018年まで執筆。さらにNHKラジオ第1「音楽の泉」では88年から2020年の長きにわたり解説者を務めた。

 「皆川先生の場合、選曲と解説原稿の執筆はもちろん、番組作りに必須のタイムキープも、使用音源の調達も、それどころか音楽開始のキュー出しさえもやってくださり、ディレクターの私は手ブラでスタジオに行き、手渡された進行表に従って音出し(CDの再生)と曲終わりの音絞りを確実に行うだけで事が済んでしまいました」(渡辺信・NHK「音楽の泉」元ディレクター)

 立教大学で教鞭をとるかたわら、多くの著作を著わし、合唱団の指導、研究にと幅広く活躍した。本書には氏の薫陶を受けた学生たちの回想も数多く所収されている。

 「そのゼミの最中に、オケゲムの《ミサ・ミ・ミ》の定旋律の原曲を見つけることができたのは、何より先生の『写本を見なさい』という教育の賜物に他ならない。……原曲を見つけたことを軽い調子で報告したところ、先生は息をのみ、目が驚きのあまり大きく見開かれたまま、かすれたような声で『ほんとうに?』と言われた。その直後、先生が素早く動いてくださったおかげで、あの論文を世に出すことができた。たかだか学部四年生の卒業論文をなぜそこまで……と尋ねた時、先生はこうおっしゃった。『君、真理の前には、何人たりとも平等でなくてはいけない。この論文を書いたのが、君であろうが誰であろうが、その価値は平等に評価されるべきなのです』と。この言葉は、音楽学研究者としての今の私を支える大きな柱となっている」(宮崎晴代・武蔵野音楽大学講師)

 西洋音楽史の専門家として出発した皆川氏であったが、かくれキリシタンの歌オラショが中世ヨーロッパで歌われていたラテン語聖歌の訛化(がか)したものであることを論証した研究で、キリシタン研究分野でも知られるようになる。

 「オラショはかくれキリシタン信仰の行事で唱えられる祈りだが、その前身のキリシタン信仰においても祈りはオラショ(Oratio)と呼ばれていた。ほとんどのかくれキリシタン地域では、オラショは禁教に対応した声に出さない形で唱えられたが、生月島では声に出して唱えるばかりか、歌われるオラショまで存在する。それは生月島では禁教に入った時期が早く (一五九九年)、禁教以前の信仰形態がそのまま継承されたからだと考えられる。……

 〔皆川氏は〕ヴァチカン図書館をはじめヨーロッパ各地で楽譜や資料を確認して回られ、七年目(一九八八年)に訪れたスペインのマドリード図書館で見た、一五五三年にグラナダで刊行された楽譜に掲載された聖歌《O gloriosa Domina》が、探し求めていた《ぐるりよーざ》の原曲であることを確認する」(中園成生・平戸市生月町博物館・島の館館長)

 《O gloriosa Domina》は17世紀以降、イベリア半島では歌われなくなっていたが、日本の生月島で歌い継がれていたということが、皆川氏の発見により明らかになったのだ。氏の発見と論考は、キリシタン研究において、かくれキリシタンに対する認識の転換をもたらす契機ともなった。

 同氏は60歳を超えてからカトリック教会で受洗。ミサでは聖体奉仕者を務めた。また76歳で、「歌オラショ」に関する研究論文により明治学院大学から芸術学博士を授与された。

 「皆川先生は、一九七五年以降キリシタン音楽に関する独創的な研究を続けてこられた。その集大成が『洋楽渡来考―キリシタン音楽の栄光と挫折』(日本キリスト教団出版局、二〇〇三年)にほかならないが、その膨大な原稿を博士論文として明治学院大学に提出されたのには正直驚いた。そこで樋口が主査、金澤正剛先生(国際基督教大学)と大原まゆみ先生(明治学院大学)を副査とする審査委員会を設置し、厳格な口頭試問を実施した。われわれ三人はみな欧米の大学で博士号を取ってきたので、妥協のない議論には慣れている。しかし皆川先生は長時間に及ぶ審査をむしろ楽しんでおられた。当時先生は七十六歳。しかし疲れも知らずに自説を論じられる。まさに先生の真骨頂を見る思いだった」(樋口隆一・明治学院大学名誉教授)

 2020年3月29日、ラジオ放送で最後の回のあいさつをし、翌月の4月19日、老衰のため帰天。92歳だった。イタリア政府からカヴァリエーレ勲章、国内ではNHK放送文化賞を贈られている。

 NHK教育テレビの番組で「倍音は天上からの贈り物」と語り、『月刊 カトリック生活』のインタビューでは、音楽ははかなく無力だが、人間が生きるもっとも根源的なものを祈りと歌が支えているのだと話していた皆川氏。生涯を通して、歌が祈りとなり、祈りが歌となることを伝えた氏は、いま天国の音楽に耳を傾けているに違いない。

【3,080円(本体2,800円+税)】
【音楽之友社】978-4276139121

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