【書評】 『季刊考古学』164号 キリシタン墓研究と考古学 小林義孝ほか 編

 昨今、各方面から関心を寄せられているキリシタンを、考古学の視点からみる1冊。考古学専門誌の特集でキリシタン墓が取り上げられること自体珍しいが、各遺跡の発掘調査に直接関わった研究者たちが寄稿しているという点でも注目に値する。表紙は大分県臼杵市の下藤キリシタン墓地の全景。口絵には千々石ミゲル夫妻墓所(長崎)、宣教師シドッティの墓(東京)、奥州のキリシタン類族の墓(岩手県)等と、キリシタン墓から見つかった副葬品のカラー写真を掲載。キリシタン墓研究の過去から最前線までを知ることができる。

1 伝播期(公認期)のキリシタン墓

 1549(天文18)年フランシスコ・ザビエル来航から1612(慶長17)年徳川家康の禁教令発布までの伝播期(公認期)のキリシタン墓の事例として、東京都東京駅八重洲北口遺跡を取り上げる。

 この遺跡からは、1590(天正18)年~1605(慶長10)年前後のキリシタン墓10基が発掘されている。いずれも土葬で、7基の埋葬姿勢が仰臥伸展葬であったことが確認された」(谷川章雄「近世墓の中のキリシタン墓」)

 キリシタン墓(地)は、東京の中心地から人気のない山中まで、全国各地で発見されているが、それらを横断的に研究する分野もある。例えば、キリシタン遺物をモノとして分析する分野がある。第一人者の後藤晃一氏によれば、キリシタン墓の副葬品は十字架やメダイ、コンタツ(ロザリオ)といった信心具が中心だが、コンタツに使用されるガラス球の中にはカボチャ(花)形のものがあり、必ずしもキリシタン遺物といえないため留意が必要だという。

 「これらの遺跡〔注:長崎県興善町遺跡、原城跡、大友府内遺跡〕から出土しているカボチャ形のガラス珠は、いずれも出土した周囲の環境がキリシタン遺物を出土しうるものとなっているところで共通しており、キリシタン遺物の可能性は高いといえよう。そこでしばしば問題となるのが、このカボチャ形のガラス珠が単体で墓から出土した場合である。例えば大阪府千提寺西遺跡では1基の墓からカボチャ形のガラス珠が出土している。前述のようにこの遺跡では、19基のキリシタン墓を検出しており、周囲の環境的にはコンタツであってもいい状況である。しかしながら、このカボチャ形のガラス珠が出土した土壙は共伴する遺物に18世紀のものが含まれ、キリスト教布教期のものではない。さらに、埋葬は座位による土葬でキリシタン墓的要素は見られない。

 また1点のみの出土で、これがロザリオを構成していた一部と考えるのは難しい。 仮に出土したガラス珠以外がすべて木製で消失したとしても、ガラス珠1個で残りはすべて木製珠というロザリオは類例をみない。江戸時代では、印籠や煙草入れの緒締にガラス珠が使用される場合があり、その場合はガラス珠1個が用いられる。千提寺西遺跡出土のガラス珠は煙管と共に出土しており、そちらの可能性が高い。

 このようにカボチャ形と言われるガラス珠は必ずしもキリシタン遺物にだけ確認されるものではない。同じように同形態のガラス珠が山口県山口市所在の瑠璃光寺跡遺跡の仏教的土葬墓から銅銭と土師質土器と共に出土しており……」(後藤晃一「キリシタン墓の副葬品」)

 こうした専門知識を持たずに、ガラス球や外国由来の素材が出土したからといってキリシタン墓であると考えてしまうと謬見につながる。「キリシタン墓研究の歩み」を担当した田中裕介氏は、さまざまな意匠をキリシタン遺物であると解釈してしまった、戦後の「切支丹幻想の時代」に言及する。

 「2期:切支丹幻想の時代

 第二次世界大戦後の混乱が落ち着いた1950年代からキリシタン墓碑への関心は復活するが、その後の研究を担ったのはキリシタン史研究者(文献)、地方史家、好事家であって、考古学研究者や石造物研究者はほとんど関わっていない時代である。戦国時代や江戸時代初期にキリスト教が盛んな地域には、当然潜伏キリシタンがいたに違いない、だからキリシタンに関わるものが残っているに違いないという発想から、さまざまな表徴をキリシタンと解釈する傾向が生まれる。筆者は井上章一にならってこの状況を切支丹幻想とよびたい」(田中裕介「キリシタン墓研究の視覚」)

 文献だけでなく、近年、モノの素材や成り立ちなど、多角的な視点から考察されることにより飛躍的に発展しているキリシタン研究。最新研究の一端を知ることで、他の遺跡や遺物を見る際にも役立つというメリットが期待される。

【2,640円(本体2,400円+税)】
【雄山閣】978-4639029182

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