【書評】 『津和野乙女峠37人の「証し人」』 筒井 砂 著/片岡瑠美子 監修

 長崎市郊外の浦上村のキリシタン約3400人が、幕末から明治にかけて西日本20藩22カ所に流刑となり、流配先で662名ほどが命を失ったことは、いまでは多くの人に知られるようになった。そのきっかけは、2018年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録である。禁教令下で代々信仰を守ったキリシタンが、開国と同時に来日した宣教師に「ワレラノムネアナタノムネトオナジ」(私たちもあなたと同じ信仰を持っています)と告白して「信徒復活」したストーリーは、カトリックのみならず、プロテスタントや歴史分野でもしばしば語られるようになり、日本人の心性を物語るものとして全国に広く膾炙するようになっている。

 そのうちの37名が命を落としたのが島根県津和野町だが、同地を管轄するカトリック広島教区では、津和野・乙女峠の37名の「証し人」を全死亡者の象徴として列聖調査を開始する申請を教皇庁列聖省に行い、許可を受けて、現在、列聖の第一段階である列福申請書をまとめる作業を進行している。著者は、列聖申請に関する歴史部門の調査と文書の作成を担当する広島教区列聖委員会委員。片岡瑠美子氏の監修のもと、本書を著した。

 なぜ662名全員ではなく、先に37名の列福運動が開始されたのかというと、津和野の場合は、政府側の歴史資料が比較的よくそろっているという事情がある。また、列聖・列福申請のルールが変化したことも関係している。以前は、異なった場所で、異なる日に殉教した人をまとめて申請することができたが、現行では、同じ場所での「証し人」の列福申請のみが受理される。歴史的調査は時間が経つほど難しくなるため、全体に先立ち、まず広島教区の37名の列福を目指すこととなったのだ。

 「浦上村山里は、1584年にキリシタン大名有馬晴信の寄進によりイエズス会のキリシタン知行地となり、1587年3月には、セミナリヨ(神学校)が高来から一時的に浦上に移転してきたこともありました。同年7月、豊臣秀吉は『伴天連追放令』を発してイエズス会宣教師の国外追放を命じ、知行地であった長崎と浦上、茂木の没収を命じ、それらを直轄地としました。長崎については鍋島飛騨守直茂を代官に任命し、1592年からは寺沢志摩守広高を長崎奉行に任じて支配させました。

 この長崎市中に隣接する長崎村、浦上村山里、浦上村淵は、長崎附3カ村と称され、他の天領と異なる点が少なくありませんでした。人口は江戸時代を通じて増加傾向にありました。長崎附3カ村の庄屋は、基本的に名字帯刀を許され、絵踏の実施、報告、証文の提出などは、庄屋が直接長崎奉行所に行うなど、市中に準じた支配域として位置付けられていました」(「潜伏時代のキリシタン」)

 「証し人」がどんな人であったかについては、「37人 各自の死のいきさつ」で述べられている。単に痛ましい話を記述するのでなく、どういった資料をふまえてそういえるかを明確にしている点が本書の特長である。

 「政府側の残してくれた史科のうち、流配キリシタンを知るうえでもっとも信憑性が高いのは、諸藩に預けられたキリシタンの名簿である『異宗門徒人員帳』です。この史科全体(流配先の20藩から提出されましたが、現在残っているのは、このうちの12藩のものだけです)からは、こと死亡要因に関しては、次のようなことがいえます。まず壮年者に死亡者が多く、また、明治3年に死亡者が集中しています。そして何よりの特徴は、『改心者』に比べて『不改心者』の死亡者数が圧倒的に多いのです。このことをもって、キリシタンへの『苛酷な拷問』が死亡者の増大につながったとするのも決して考えられないことではないでしょう」(「37人 各自の死のいきさつ」)

 1873年、高札が撤去され、流配された不改心信徒も帰郷を許された。実質的にキリスト教が黙許状態となったものの、日本において信教の自由が認められ、保障されるまでには、その後長い時間がかかった。しかし、浦上キリシタンの流配と「証し」によって、信仰を奪うということがいかに困難なことであるか、政府関係者に示されたことは小さなことではなかった。高札撤去から151年。いま一度、人にとって信仰とは何であるかを考え、その恵みを噛みしめたい。

【990円(本体900円+税)】
【女子パウロ会】978-4789608367

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