【書評】 『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』 長谷川修一

 イスラエルのパレスチナ侵攻以来、聖書とユダヤ教、ユダヤ人の歴史と預言の成就といったテーマが、再び注目を集めている。立教大学教授にして、旧約学・オリエント史を専門とする著者が、このような問題関心に対してその大元となる歴史を解説。ユダヤ教やキリスト教、イスラームにつながる唯一神教的思想がどのようにして生まれ、歴史の中で涵養されてきたのかを学術的知見をふまえつつ平易な言葉で語る。

 ユダヤ人は一体いつ歴史に登場したのか。聖書によれば、古代の西アジアにユダ族出身のダビデが築いた王国があったが、ダビデの孫の代に北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂した。紀元前10世紀後半のことだったと考えられている。北王国の人々は「イスラエル人」、南王国の人々は「ユダ人」と呼ばれ、両国は分裂してもそれぞれヤハウェを引き続き信仰していた。北王国がアッシリアによって滅ぼされた後にも、南のユダ王国は100年以上存続したが、ついにバビロニアによって滅ぼされる。

 「ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、一部の人々がバビロニアに連れていかれます。やがてアケメネス朝ペルシア時代に帰還した人々は『イェフド』と呼ばれるようになったこの地域に住み、独自の慣習を発展させました。ヘレニズム時代になると、この地域は『ユダヤ』と呼ばれるようになり、そこに住む住民、そしてそこには住まなくても彼ら独自の慣習を守る人々が『ユダヤ人』と呼ばれるようになったのです。逆にいうと、ヘレニズム時代以前にエルサレム周辺に住んでいた人々を『ユダヤ人』と呼ぶのは厳密には誤りです。

 ユダヤ人のなかにはバビロニアに連れていかれたユダ王国の人々の末裔もいましたし、連れていかれずにその地に残った人々の末裔もいたことでしょう。また途中からこれらの人々の集団に加わってその慣習を受けいれた人々もいました。『ユダヤ教』が成立してからは出自に関係なく、ユダヤ教に改宗した人々もユダヤ人と呼ばれるようになりました」(第一章)

 捕囚となってバビロニアに連行された人々は、なぜ祖国が滅亡したのか、ヤハウェはどうしてこのようなことを行われたのかを考え、これは神の罰であるという結論に至る。そして神からの命令を遵守できるよう律法をまとめる作業を行った。また、神と自分たちがどう関わってきたのかを民族の歴史として編纂した。この過程で、アブラハムから出エジプト、列王記までの歴史書の原型が成立したと考えられている。同時に、捕囚民は神殿なしに、動物祭儀をせずにヤハウェを崇拝する新たな方法を考え出す必要があった。

 「ヘブライ語聖書のなかには、犠牲よりも神の命令にしたがうことを神がよろこばれる、という記述が散見されます(サムエル記上十五章二二節……など)。これらの記述の背後にある思想がいつの時代にまでさかのぼれるのかについては確定的なことはいえません。……その起源がいつであれ、バビロニアにおけるユダの捕囚民は、祭儀をおこなうことができなくなった代わりに、神の言葉、すなわち律法を遵守することを重視するようになったのだと考えるとつじつまが合うのではないでしょうか」(第三章)

 律法に定められた安息日、男児割礼、食物規定などは、バビロニアという大文明のただ中で、ユダの民としてのアイデンティティを保持する機能を果たした。これらには神殿も祭儀も必要がない。このとき確立したさまざまな規定は、その後も長くディアスポラ(離散)という状況にあったユダヤ人にとって、アイデンティティを保持する装置として機能した。

 だが、中世以降のヨーロッパのキリスト教社会では、そうした独自の規定や慣習を守るユダヤ人が異質なものとして映り、金融業によって富を築く彼らに対して貧困層のキリスト教徒が怨恨を抱くこともあった。そうした不信感や嫌悪に何かのきっかけで火がつくと、暴力や集団虐殺にまで発展することがあった。また、都市内で居住区を設定されたり、キリスト教への改宗を強制されたりした。

 「こうした困難な状況が何百年間続いても、ユダヤ人が離散して居住した各地で自らのアイデンティティを失うことがなかったのは、バビロニア捕囚以後、アイデンティティを保持するためのシステムを構築していたからにほかなりません。しかし同時に、このアイデンティティ保持システムがあったために、ユダヤ人が迫害の対象になったというのもまた事実です」(第四章)

 1948年、イスラエル国家が誕生し、その後4度にわたる中東戦争を勝ち抜いたイスラエルに居住するユダヤ人は、周囲に敵対する国があっても動じない強硬さを国際社会で発揮している。一方、実体を伴う国家の中では、もはや律法の遵守によって自らのアイデンティティを保持する必要がなくなり、国内では世俗化が進み、律法を守らない人も多くいる。だが著者は、そのような現代であっても、「捕囚民たちが、このような災難がどうして起こったのかその理由を考えぬき、そこから教訓を引き出してそれによって明るい未来を目指そうとした」意義は失われてはいないという。そうした中から生み出されたのが、人類の文化遺産である聖書だからだ。今から2600年以上前のバビロニア捕囚は、捕囚民にとって絶望の始まりだったが、彼らが過去と真摯に対峙し、幸福な未来を希求したことで、聖書の教訓を導き出した。著者は、それは今にまで続く希望の始まりだったともいえるだろうと述べる。

 この遺産をどう現在の世界情勢の中で生かしていくのか。いまやユダヤ人は捕囚でもなく、自らの国と軍隊を持ち、あまつさえ武力まで行使している。神の罰であると重く受け止め立ち返ったことで得た教訓と、虐げられる苦しみを知っている民族であることを、この時代にユダヤ人はどのように生かすのか。世界が注目し、神が炎のような目で見つめているはずだ。

【1,100円(本体1,000円+税)】
【NHK出版】978-4144073076

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