【書評】 『改訂増補 バテレン追放令 16世紀の日欧対決』 安野眞幸

 1989年に出版され、サントリー学芸賞を受賞した安野眞幸著『バテレン追放令 16世紀の日欧対決』が、文庫版となって帰ってきた。文庫化にあたり、改訂の上、プロローグが加えられ、第Ⅱ部の「バテレン追放令」が新稿に差し替えられた。さらに、補論として著者の2021年の論考2編が収録されている。

 同書が評価された理由の一つは、カトリック教会の「教権制」に着目し、その政治性が秀吉の推し進める天下統一と衝突したために、バテレン追放令が発布されるに至ったという一連の流れを論証した点にある。著者はヨーロッパにおける「教権制」の発生と日本への導入を以下のように説明する。

 「ローマ帝国内でキリスト教が国教となり、やがてローマ帝国が崩壊すると、ローマ教会は帝国の遺産を継承し、地域住民を丸ごと支配する課題を背負った。『神の国』の建設という理想に代わり、地域住民の凡てを保護下に置く『教権制』の維持・発展が新しい政治課題になった。……

 日本の教権制は、領主を改宗させることで、領民を丸ごと教会に組織することで可能となった。……

 四代目の日本布教長となったコエリュは大村領内の僧侶に対し、キリスト教への改宗か追放かの選択を迫り、宗門・檀家の一挙的な改宗を進め、強制改宗を行った。島原の乱に際しては、神田千里が『島原の乱』(中公新書)で述べたように、一揆の首謀者たちは郷村ごとに一揆に参加するか敵対するかを迫り、キリスト教へ立ち返る多くの人々を中心としながら、新たな改宗者をも含みつつ、天草・島原地方の多くの人々の結集に成功した。結果として一揆参加者は全員殉教した。以上の二例から、日本の布教区の教権制は領主の個人的な改宗と地域住民の教会支配との結合に依っていたことは明らかである」

 このような「教権制」は、天下人にとって非常に目障りなものとして映るしかなかった。

 「この教権制は秀吉が進めようとした大名・領主の鉢植え化、転封の原理と敵対しており、これへの不適応にイエズス会の時代的制約性が現れている。イエズス会は秀吉の進める国内統治策により、一挙に時代遅れのものになった。信長・光秀の滅亡後、天皇の権威を基に九州の地に平和を齋そうとした秀吉は、九州を統一した後『バテレン追放令』を出し、その第一条では『日本は神国』だと宣言した。これは山口での布教以来の懸案であったキリスト教の布教の推進が地域社会の騒乱の原因となるという難問に対する天下人秀吉の回答であった。第二条は教権制・強制改宗への批判である」(以上、「プロローグ」)

 本書の「バテレン追放令」に関する史料分析も、長く研究者たちから参照されてきた。高山右近を中核とするキリシタン武将たちを「キリシタン党」と名づけた上で、秀吉が構想した「天下」がどういうものであったかをテキストから読み取りつつ、両者のビジョンがなぜ共存できなかったのかが考察されている。

 「以上から〈伴天連門徒と神社仏閣の両勢力を共に秀吉政権の保護下に置き、両者に平和を命ずる〉ことがこの時点での『天下』の内実であり、右近を頂点とする『キリシタン党』やコエリュに率いられた『イエズス会』に対し、このような形での統合を試みていたのである。しかし実際の歴史は後述するとおり、右近は棄教をよしとせず殉教者としての道を歩み、『キリシタン党』の『天下』への統合は破綻した。一方コエリュも布教地日本の宗教・文化と非妥協的に対立する強硬な布教路線に変更を加えることを潔しとせず、その結果が翌日の『バテレン追放令』の発布となったのである」(「秀吉と右近」)

 補論「長崎開港と神功皇后との奇しき縁」では、禁教期におけるキリシタン政策が長崎で神功皇后伝説が広まる要因になった可能性を指摘する。著者によれば、江戸時代の長崎では神功皇后の物語が蔓延していたという。

 「江戸時代の長崎では『神代の物語』が新しく紡がれていった。神代の物語は『古事記』『日本書紀』などに基づいている。長崎地方には古い伝承を伝えた豪族の存在は知られていない。それにもかかわらず『神代の物語』が紡がれたのは、そうした物語を必要とした事情が長崎奉行の周辺にあったからである。キリシタンを『邪教』とし、長崎に『神国』観を植え付けるために、『神国日本』の神々の記憶を人々に植え付ける必要であった」

 「地域住民を丸ごと動員するものには、個人の魂の成仏を願う寺院の復活よりも、産土の神を祀る神社の再建が重要であった。その点で寛永初年の諏訪神社の再興は画期的であった。……諏訪神社の祭りは今では長崎の町を挙げての市民の祭りとして定着しているが、当初は住民の抵抗も激しかったのである。祭礼の出し物・オクンチの中心テーマは神功皇后の三韓征伐である」(以上、「長崎開港と神功皇后との奇しき縁」)

 エピローグでは、バテレン追放令で宣言された「日本は神国である」という「神国イデオロギー」を取り上げ、そこに淵源する尊王攘夷運動、天皇制を論じている。

 「『神国イデオロギー』が『仏教を軸にした神儒仏の混合思想』では立ちゆかなくなったときに、これを補強・改変すべく登場したものが、『尊王攘夷』論であり『天皇』であったとなろう。明治の日本が日清・日露の戦いを経て、世界の三大強国の一つにのし上がり『鬼畜米英』をスローガンに『大東亜の聖戦』に突入していった歴史を見ると、『キリシタン世紀』以来現代に至るまで、歴代の日本の外交政策は『対抗イデオロギー』を超えることができなかったとの思いが強く涌いてくる」(「エピローグ」)

 こうした対抗イデオロギーは、「対抗」するために生まれた言説であるがために、常に「強いられた」ものという後ろめたさを伴い、「悪いのは日本ばかりではない。欧米列強はもっと悪いことをやってきた」という保守思想の歴史的な土壌となっていると、著者は指摘する。この「エピローグ」が書かれたのは前世紀だが、今日の読者にも突き刺さる。改訂増補として再版された意義は決して小さくない。

【1,430円(本体1,300円+税)】
【筑摩書房】978-4480512123

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