【雑誌紹介】 神の恵みに差はあるか? 『礼拝と音楽』201号
特集「集う」。「オンラインから再び礼拝堂へ、あるいはハイブリッドへ」と題し、浦上充(日本基督教団東中野教会牧師)が指摘する。
「新型コロナのパンデミックが始まるまで、私たちが『礼拝に参加する』あるいは『礼拝に参加した』ことを示す条件とは、特定の時間、特定の場所で行われる礼拝に対面で参加することであった」
「一方このことによって、仕事や家事、育児や介護、身体的あるいは精神的な事情から礼拝が行われる場所や時間に教会に行くことのできない人は、礼拝に参加できなかった。つまり厳密に言えば、その人はその教会の礼拝共同体の一員になれないのである。もちろん、教会に集まって礼拝を捧げている者も、そのことを痛みとして受け止めている。だからこそ礼拝の中で『ここに集まることのできない方々にも、私たちと同じ恵みをお与えください』といった祈りがよく捧げられるのである。しかしこの祈りの中にも、考えなければならない事柄が存在する」
「果たして、『教会に集まって礼拝を捧げている人』と『教会に来ることのできない人』とでは神の恵みに差があるのだろうか。この祈りには、『教会で礼拝を捧げることのできる私たちには神の恵みが十分に注がれているが、ここに集まれない方々には神の恵みが十分に注がれていない』という思いがあるのではないだろうか」
「聖霊の自由な働きを勝手に制限し、『ここに集まることのできない方々にも、私たちと同じ恵みをお与えください』と祈るのは、傲慢ではないかと感じている。特にプロテスタント教会は、信仰によって救われるという『信仰義認』と共に、その信仰の目に見える証しとして、『礼拝に集まる』ことを大切にしてきた。しかしそのゆえに、『集まる』あるいは『集まらない』といった人の行為によって神の恵みの大小が左右される(行為義認)という思いが、無意識の内にあるのではないだろうか」
「これは、『礼拝に集まらなくてよい』ということではなく、私たちの中で無意識の内に醸成されてきた感覚に対して、無自覚であってはならないということである。私たちは、今回のパンデミックによって教会に集まることが強制的に中断され、『礼拝に行きたくても行けない』ということがいかに苦しいものであり、『集う』ことができない中で交わりを深めることがいかに困難であるのかということに気づかされた。感染の拡大が落ち着き、社会の様子が少しずつコロナ前の状況に戻ってきた今だからこそ、『教会に集まることができない』状況に置かれた人を置き去りにしてはならないと感じている」
【1,500円(本体1,364円+税)】
【日本キリスト教団出版局】