【書評】 『東アジアの王宮・王都と仏教』 堀 裕、三上喜孝、吉田 歓 編著

 インドに起源を持ち、東部ユーラシア大陸に展開した仏教が、各国・各地域の政治・外交・文化との関わりを通して、新たな宗教文化を創出し、特色ある宗教史を育んできたことはよく知られている。だが、国によって政治体制や社会構造が異なるため、東アジア全体の王宮・王都と仏教の比較検討はこれまで十分にはなされてこなかった。そうした現状に風穴を開け、今後の研究につなぐべく、東アジアの仏教を研究対象とする16人によって編まれたのが本書。

 「王宮や王都の研究は、これまでもさまざまな形で行われてきたが、基本的には所在地の探究、そして復元といった面が主たる課題になることが多く、その上で、実際にどのように機能していたのか、つまり、政務や儀礼がどのように行われていたのか、住民の生活はどうであったのか、といった課題に関心が持たれてきた。しかし、それ以外に宗教的な行事が行われることもあったことにも注目しなければならない。本書は、王宮・王都を場として宗教的な行事がどのように行われ、どのような意味を持っていたのかを、国際的な視点から追究しようとした内容となっている。また、研究分野も考古学、美術史、仏教史、文献史学など多方面にわたり、学際的な研究成果を示すことを通じて、新しい観点や論点を提示できたものと考える」(三上喜孝・吉田歓「あとがき」)

 第一部「東アジア比較史のなかの倭・日本」、第二部「百済・新羅と東アジアの王宮仏事」、第三部「『宗教の時代』のおわりと東部ユーラシアの王宮仏事」の三部構成。第一部では、中国史・朝鮮史との比較を通して、倭・日本の特色を明らかにすることを目的にしている。

 「太極殿仏事の成立は、同時に護国経典の受容と一体である。皇帝を菩薩あるいは転輪聖王などと讃えることは、それより前からみられたのだが、護国経典を皇帝の正統性のひとつとして受け入れることで、聖俗を一体とすることへと踏み込んだのである。……

 その直接的な契機としては、即位の正統性が問われた武則天にとって、宗教的粉飾の必要性という面なども確かにあったが、魏晋南北朝から隋唐にかけての『宗教の時代』のなかでも、儒教的規範に対する大きな構造的変化があったとみることができる。……

 日本が影響を受けたと考えられる先の事象のなかでも、聖武・孝謙に関わる政策が、しばしば武則天の影響を受けていることを勘案するならば、いずれも、不安定な権力の正当性の確保をするためのひとつの手段であったと解釈され得るが、天平神護三年説に依拠し、称徳天皇による権力集中のひとつと評価するのは、慎重に保留すべきである。……

 倭・日本は、国家が仏教を導入・育成してきたため、反体制活動は少なく、また仏教と神 話的世界観との共存も比較的容易であった。このため、儒教的秩序を受容しつつも全面的に依拠することはなく、仏教的な政権の正当化を中心的な論理のひとつとして押し進めたのである。正当性にみる多元的な要素ということもできよう。これが日本古代仏教の到達点であり、中世における仏教重視の『王権』の環境を用意したと考える」(堀裕「東アジアの王宮正殿仏事と正統性」)

 第二部では王宮と仏教に関する蓄積を持つ百済と新羅に焦点を当て、実態を解明するとともに東アジアのなかに位置づけ、日本にもたらされた影響を考察する。

 「日本列島においても、六世紀の段階で百済を通じて観音信仰がもたらされたが、とくに七世紀後半の白村江での敗戦後に日本列島に渡来した百済人などによって急速に広まっていったものと思われる。観世音応験説話の中に、航海安全祈願や戦乱からの帰還といった内容がみられることからもわかるように、白村江の敗戦と敗走は、観音経典や観音菩薩に対する信仰を飛躍的に高める契機になったのではないだろうか」(三上喜孝「観音信仰、百済から日本へ―『観世音応験記』を出発点として」)

 第三部では、日本・朝鮮・中国だけでなく、より視野を広げて、元や異なる民族の興亡をも考察の対象に加え、儒教・道教など他の宗教思想と出合うことで、仏教がどのような変化を遂げたのかを論じる。塚本麿充「『天書』と『舎利』―宋代宮廷美術における宗教文物の否定性と意味の変遷」では、キリスト教やイスラム教の聖遺物に言及しながら、舎利や各地域の地方仏教を代表する、聖遺物ともいえるような文物が担った役割を明らかにしている。渡辺健哉論文では、13、14世紀にユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国を取り上げる。

 「大都には仏教・道教はもちろん、イスラーム・キリスト教の宗教施設も建設された。とくに都であることから、大都には当時の仏教・道教の各宗派の拠点が置かれた。キリスト教についても、モンテコルヴィーノの書簡によれば、大都に教会を建立し、そこで六千人の信徒に洗礼を授けたという」

 「キリスト教の行事も行われた。

 まず、天暦元年(一三三八)のこととして、『元史』巻三三、天暦元年九月戊寅に、『高昌の僧侶に命じて仏事を延春閣で行わせた。また也里可温に命じて仏事を顕懿荘聖皇后の神御殿で行わせた(命高昌僧作仏事於延春閣。又命也里可溫於顯懿荘聖皇后神御殿作仏事)。」とあって、高昌の僧侶には延春閣で『仏事』を、也里可温には神御殿で『仏事』を行わせたことが記される。『也里可温』はネストリウス派キリスト教士を指す。従って『仏事』とあるけれども、キリスト教に関わる儀式が宮中で行われていた事実を伝える。一三三三/二四~一三二八頃に中華世界に滞在していたフランチェスコ会の修道士オドリコ(オドリクス)の旅行記には以下のように記されている。……

 なお、こうした宗教行事は、皇帝の嗜好により数が増減したと考えられ、恒常的に行われていたわけではない。以上のように、多種多様な宗教行事が大都の宮殿、ひいては都市の内部で展開したのである」(以上、渡辺健哉「元の大都における宗教行事をめぐる基礎的考察」)

 東アジアにおける仏教と王権・王都について論じた論集ではあるものの、おのずとキリスト教など諸宗教にも論述は及ぶ。さらに、各宗教が互いに影響を与え合うことで変化がもたらされ、思想や文化として各地に伝播していったことを俯瞰することができる。学術書であるため気軽に手に取りやすい書籍ではないが、各専門研究者によって信頼性が担保されている。日本に伝来した宗教思想や文化について知る上でも知識のベースとして役立てたい。

【13,200円(本体12,000円+税)】
【勉誠社】978-4585320326

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