【書評】 『梅子と旅する。 日本の女子教育のパイオニア』 フォレストブックス編集室 編
新五千円札の顔となった津田梅子。お札をしげしげと眺めながら、「どんな人だったんだろう」と、彼女の生涯や人となりを知りたくなる人もいるだろう。本書はそうしたニーズに応えるべく、いのちのことば社フォレストブックス「旅するシリーズ」の第4弾として出版された。「旅する」とあるように、場所にちなんだエピソードが盛り込まれたコラム「カメラ片手に梅さんぽ」「津田塾小平キャンパス探訪」などが差し込まれ、ガイドブックの役割も果たす。実際に訪れる際に便利であるばかりか、自宅で机上旅行を楽しむにも有用だ。
人生を旅にたとえるなら、梅子の冒険の旅が始まったのは横浜からだった。1871年、7歳になる直前の梅子は、岩倉使節団とともにこの港を出発した。日本初の官費(国費)女子留学生5人のうち最年少だったのが梅子だ。
「横浜の港を出航する時、大勢の見送り人の中から、『あんな小さな子をアメリカに出すなんて、母親は鬼だね』という声が聞こえたとか。アメリカで出迎えた駐米少弁務使で女子留学生の担当だった森有礼(後の初代文部大臣)も、梅子を見て『こんな幼い子(ベイビー)を送ってきて、どうすればいいんだ』と驚いたそうです」(2章 梅子の留学生時代。)
ホストファミリーはランマン家。子どものいない夫妻は梅子を本当の子どものようにかわいがり、優れた教育を与えた。ランマン夫妻は米国聖公会の聖ヨハネ教会の信徒で、梅子も教会に通うようになったが、ランマン家に来て半年も経たないころ、梅子は「洗礼を受けたい」と夫妻に告げた。夫妻は特に梅子にキリスト教を勧めたことはなかったので驚いたが、「いつか時が来たら」と思っていたので喜んだ。
日本を発って11年、17歳となった梅子は再び横浜の土を踏みしめた。日本語をすっかり忘れてしまっていたため、せっかく麻布の実家に帰り、恋しかった母に会っても直接言葉を交わせず、梅子は戸惑いと苦しみを感じるしかなかった。日本ではまだ彼女が活躍できる環境もなく、帰国した翌春になっても道が開けず、気のふせぐ日々が続いた。そんなとき、伊藤博文の仲介により桃夭学校(現・実践女子学園)英語講師の職を得た。1885年からは華族女学校の教授補として正式に採用された。
しかし、華族女学校で求められたのは、良妻賢母の育成。教えることに喜びを感じる一方で、梅子はいらだちも感じていた。そこでもう一度留学しようと考え、梅子がブリンマー大学の学長と掛け合うなど動いていたところ、華族女学校は教育研修として在職のまま(つまり給与支給で)2年間の留学を認めた。こうして89年、梅子は再びアメリカに。大学では生物学を専攻した。
帰国後、梅子は女性のための大学設立に邁進し、ついに1900年9月14日、女子英学塾を開校。校舎ともいえない一軒の借家からのスタートだった。
「ミッションスクールにはしなかったけれど、講師陣を見る時、キリスト教精神がベースになっていることは明確です。そして、『オールラウンド・ウーマン』の育成という梅子の方針も多彩なカリキュラムも反映されていました」(4章 梅子と旅する。)
本書では「梅子と教会」という小見出しが立てられ、受洗したアメリカの教会から、帰国後通っていた英語で礼拝する教会、創立会員となった博愛教会(現・聖愛教会)などが紹介されている。現在のどこにあたるのか写真つきで解説されており、「こんな所にあったのか」と新たな発見ができ、より身近に感じられそうだ。
「梅子の娘たち」と題されたコラムも興味深い。生涯独身だった梅子には子どもはいないが、彼女のスピリットを受け継いだ者たちが輩出されている。梅子はよく言っていた。「自分の強みを見つけなさい」と。女子英学塾から津田塾大学へ、時代とともに名前を変えつつも、そのスピリットは貫かれてきた。そのスピリットを受け継いだ「梅子の娘たち」が、世界に羽ばたきリーダーシップを発揮しているのだ。
梅子の体に病が見つかったのは52歳のとき。それからの12年間は病とともに生きたが、常に学校のことを心に置いていた。1929年、神奈川県の稲村ケ崎で静かにこの世の生を終えた。墓は本人の希望で小平キャンパスの敷地内に建てられ、いまも学生たちを見守っている。「より大きな未来に目を向けなければなりません。しかし初期の精神は決して失ってはなりません」と語っていた梅子。新五千円札を見るたびに、彼女のスピリットを思い出したい。
【1,650円(本体1,500円+税)】
【いのちのことば社】978-4264044789