【書評】 『信仰万華鏡(カレイドスコープ) カトリック時代エッセー』 川村信三

 長崎・天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録されてから6年。キリシタンへの関心が広まり、昨今ではプロテスタントでもキリシタン巡礼に参加する信徒が増えているが、こうした変化をキリシタン研究の第一人者はどう見てきたのか。本書は、2018年から23年にかけて川村信三氏が「カトリック新聞」に毎月連載してきたエッセイ55編を所収。映画『沈黙―サイレンス―』やNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の舞台裏を明かしつつ、キリシタンに対する根強い誤解を解き、自身の学識と経験を生み出す源となった信仰を綴る。

 「二〇一七年の映画『沈黙―サイレンス―』は、映画評論家から概ね良好な評価を受け、一般の聴衆にも大きな感動を与える作品となった。……

 しかし、個人的には、原作に出合った時のカトリック信徒としての違和感は払拭しきれず、原作を読み返しても手放しで喜べない何かがあることも改めて感じられた」(4 『沈黙』についての違和感)

 川村氏はこの違和感の正体を考え、原作者である遠藤周作が接したカトリック教会の状況に思い至る。第二バチカン公会議前のカトリック教会は、自己の絶対性を強調し、他への排他的な態度を崩さなかった。そうした状況をふまえ、「遠藤が『沈黙』で描いたのは、十六世紀のキリシタン教会というよりは、 彼自身が属していた二十世紀初頭の教会の様相だったのではないか」と推測している。

 専門家である氏のもとには、さまざまな質問や依頼が寄せられる。「キリシタンは五十万人の日本人を奴隷として外国に売り払った」とネット記事にあるが、その真偽のほどを解説してほしいとテレビ局から依頼されたこともあった。これに対して川村氏は、まず50万人もの日本人を海外に連れていく船舶組織と航行システムが当時なかったことに触れた上で、「キリシタンは」とひと括りにすることに問題があると述べる。キリシタンといっても大名なのか、信徒なのか、イエズス会宣教師なのか、ポルトガル商人なのかによって、それぞれ思惑と行動が違う。それらをひとまとめにして論じてしまうと誤解が生じるのだ。

 川村氏によれば、以下の5点は歴史的事実として確認できるという。

・豊後・薩摩間の争いで敗戦側の領民が捕虜となり、「人身売買」の対象となったこと。
・豊後捕虜の中には、確かに島原半島などで奴隷売買の対象とされた人びとがいたこと。
・九州に入った秀吉はそうした事実を知って驚き、「奴隷売買」の停止の令を発したこと。
・外国商人との仲介役の日本人商人の中に、キリシタンがいた事実は否定できないこと。
・宣教師は、商人たちに奴隷売買を禁止しようとしたが、罰する(教会)法的な強制力を持たなかったこと。

 「こうした幾つかの史実を巧みに組み合わせて、キリスト教は日本にとってひどいことをしたという結論にもっていくことは、それほど難しいことではない」という。しかし、「人身売買という行為が、『キリシタン』特有の組織的行為のように言うのは論理の飛躍だと言え」、もっとじっくり解説する必要があるとしている。

 「キリスト教(カトリック)が話題になり、世間一般の評価が高まると、それに比例するかのように『耶蘇ぎらい』の声も音量を増していく。キリスト教はそれほど立派でも平和的でもないだろうという主張を展開することによって、バランスをとっているかのようである。ある意味、そうした批判はキリスト教徒が謙虚になるためにも必要で、また、ありがたいことなのかもしれない。

 キリスト教は、真に人びとの幸福を願い、宗教本来の目的を意識して、過去の歴史と静かに向き合う必要がある。事実は何であったのか、誤解や誤り、捏造に振り回されることなく、そうした認識の上に立って、私たちは過去の歴史を反省し、幸福追求というキリスト教本来のメッセージを、私たち一人ひとりの『信じる』生き方を通して示していけるようにしたい」(12 キリスト教徒の歴史的功罪を問う人びとの声)

 ザビエルの中国宣教に関連して、東方キリスト教や「景教」についても指摘。

 「東方にはアラム語(イエスと弟子たちの言葉)を話す『ユダヤ人キリスト者』と呼ばれる人びとが多数存在した。現在のイラク・イランの北部周辺に拡大した『東方アッシリア(東シリア)教会」がその中心拠点となり、サーサーン朝ペルシャの保護の下で栄え、シルクロードを経由して中国に入り、『景教』と呼ばれた歴史を東方キリスト教史の第一人者であるアズィス・アティーアなどが強調している。

 従来の歴史教科書は、中国の『景教』が『ネストリウス派』の伝播したものであるとだけ説明する。その記述から生じる印象は、『景教』がキリスト教の正統派から分離した異端につながる教えであり、元のキリスト教とは相容れないものだというミスリード(誤誘導)を引き起こす。しかし、『景教』の伝統は、ネストリウス派の『異端』要素だけで語り尽くすことは到底できない。景教は、五世紀以前から続く長い歴史と豊かな伝統を持ち、東に伝播した初代教会の本質をも受け継いでいる。初代教会以来、東方において広がり成熟したキリスト教集団が(ユダヤ人共同体を基盤として)すでに存在していて、そこにネストリウス派の合流を伴って、七世紀半ばに中国に入ったという説明が正確なのである」

 ザビエルがわずか2年ほど日本宣教をしてから、突如として中国への渡航を熱望したことについては、「日本人の文化全般に非常に大きな影響を与えている中国で、改宗者を得ることができれば、日本宣教にも利する」からという、日本のための中国渡航説が従来は有力とされてきた。しかし、長年ザビエル研究に取り組んできた岸野久氏は、ザビエルの中国渡航の目的は中国そのものへの期待であると考察している。キリスト教徒らしき者がすでに住んでいる中国への宣教が最優先課題だったというのである。だとすれば、ザビエルは海路を渡ってきた東アジアで、シルクロードという陸路を通って伝えられた初代教会の信仰に邂逅しようと願っていたことになる。

 1994年の教皇ヨハネ・パウロ二世と東方アッシリア教会マル・ディンカ総主教の会見と合同宣言、それを追認した2018年の教皇フランシスコと総主教マル・ゲワルギス三世に触れながら、川村氏はザビエルと中国宣教についてこう述べる。

 「もしも、ザピエルが中国渡航に成功し、東方キリスト教の末裔と合流できたとすれば、彼は使徒聖トマスの伝説とも重ね合わせて、初代教会につながる大きな流れに気が付いたはずである。キリストの信仰において一致する可能性を示した現代の教皇と総主教たちの思いも、五百年前、中国宣教の熱意に燃えたザビエルの思いにつながっていると考えたい」(以上、35 ザビエルはなぜ中国宣教を目指したのか)

 歴史にフォーカスを当てたエッセイだが、その視野は歴史的な時間軸だけでなく、目に見えない世界にまで及ぶ。知識と信仰の両面で実を結ぶ読み物となっている。

【1,980円(本体1,800円+税)】
【サンパウロ】978-4805639245

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