【書評】 『LGBTQ 聖書はそう言っているのか?』 藤本 満
保守的「福音派」を自認しながらLGBTQを肯定する牧師による渾身の1冊。前提として著者は読者を「肯定派」へ導くことを意図しておらず、これまで「福音派」や「保守派」と呼ばれる界隈でほとんど議論されることのなかったLGBTQの歴史的・社会学的背景を紐解くとともに、神学的な語りの中でどのように取り扱われてきたのかを聖書の釈義を通して考察し、さらなる祈りと学びへ招かれることを目指す。
「LGBTQの歴史的・社会学的解釈」「LGBTQの聖書学的解釈」「LGBTQに対する教会の現状」という三つの主題が綿密に折り重なる形の構成で、「賛成か反対か」「保守かリベラルか」と拙速に結論を迫ろうとする風潮に一石を投じる。
著者は「LGBTQ」という概念の登場について、端緒が19世紀のドイツにあると歴史学的に証明されていることから、聖書を含むそれ以前に記された書物などに現代的な性愛の理解を当てはめることはミスリードを生み出すと指摘。哲学者ロラン・バルトの「作者の死」にあるように、近代以降「テクスト」は作者の意図を重視する作品論から読者の解釈を優先させる行為論が主流となっている。他方「聖書を読む」という営みにおいて、読者は〝無闇に〟現代的な意図や解釈を押し付けることを避ける必要がある。
さらに、聖書は明確に「異性愛」を前提にしていることも創世記1~2章を引用しながら解説。「男が男と寝てはいけない」というような記述も、本来は異性愛者の行き過ぎた欲求に対する警告であり、現代的な意味合いでの「同性愛者同士の性行為の否定」はそもそも想定されていないという。加えて聖書が記された当時の社会通念として、男性が男性を襲うことは性的興奮からというより暴行や征服などを通して相手を「辱める」ことが目的であるケースが多かった。
ソドム事件について、のちにエゼキエル書16章49節以下では「だが、あなたの妹ソドムの咎(とが)はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった」と語られている。ここに同性愛行為への非難はなく、むしろ自己愛性と他者排斥について指摘されている。
複雑に見える聖書の記述について「ただ真っ直ぐに聖書を読めばいい」という意見も少なくない。しかし、ここでの「真っ直ぐ」は多くの人が想像する「タブラ・ラサ(白紙化)された視座」ではなく、実際は自らの経験や直感を下敷きとした「恣意的な視座」であるという謙虚さが求められる。仮に読者がどれほど純粋になろうが、言うまでもなく聖書を含め「言葉化」されたものには必ずその背景に文化的・社会的背景が存在する。
訳語のシフトもまた同性愛への誤解を招いているという。新約聖書のコリント社会におけるジェンダー観は「男性は強く、女性は弱く(柔らかく)」であり、コリントの信徒への手紙一6章9節「男娼となる者(マラコイ)」も本来は「柔らかさ(マラコス)」という女々しい者、自制心を欠く者、怠惰な者という意味。歴史的にも宗教改革時には「軟弱で男らしさに欠ける者」と解釈、イングランドの欽定訳(1611年)では「女々しい男」と当時のギリシャ語の感覚のままで訳されていたが、19世紀後半の同性愛という概念の登場とともに同性同士の性的な行動を批判しているような訳語に変更された。「聖書の時代の人々は同性同士の静的な行動を思い浮かべたとき、それは異性愛者(多くは妻帯者)による過剰な性欲・情欲の発散と見ていた」
LGBTQに関する議論を忌避する傾向の一つに、異性愛化された共同体(公共圏)で発生する「ホモ・フォビア」(同性愛嫌悪)という前提もあると著者。時にキリスト教会はLGBTQの当事者について、架空の存在であるかのような机上の議論を行うが、教会やクリスチャンは実際に身近で生活を営む当事者たちの尊厳を欠く言動を慎むべきとも釘をさす。「愛する者が互いに向き合うとき、互いに結ばれたいという思い、家族を形成したいという思いに至ります」「人間が、愛の行きめぐる人格として創造された限り、異性愛者であろうが同性愛者であろうが、その愛は尊ばれるべき」
著者は教会に対し、「LGBTQの課題を教会の外に課題としてではなく、内にある課題として受け止めること」を求める。かつて教会は、転向療法による強引な性的指向・性自認の変容を推奨してきた歴史がある。今日でも、あらゆる人を受け入れるべきだと「概念」で理解はしていても、実際のところ性的マイノリティとされる人々が門をくぐろうとすると、途端に躊躇する教会は少なくない。
著者によれば、聖書における「異性愛」は「基本」であるが「規範」ではない。後者の場合、それに該当しない者を途端によそ者として取り扱うが、それこそソドムと同じ罪を陥ってはいないか。また「同性愛は罪」や「治る病気」という見解について、語彙の一つずつがどのような意味で使用されているのか、また「治療」という場合、例えば本書でも言及され、精神分析の世界でもすでに自明のこととなっている「転向治療」の弊害を見る時、何をもって「癒やし」や「回復」と呼べるのか再検討する必要がある。
「最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイによる福音書25章40節)との聖書の言葉を、「真っ直ぐ」に読む姿勢こそが問われている。
【2,970円(本体2,700円+税)】
【イクススeブックス 】979-8329405774