【書評】 『内村鑑三問答』 鈴木範久

青年期に一夏かけて『内村鑑三著作集』全21巻を通読して以降、60年もの長きにわたり内村鑑三に取り組んできた著者が、さまざまな側面から内村を論じた。著者は1997年まで7年かけて『内村鑑三日録』全12巻を刊行したが、刊行後、『日録』に入れておけばよかったと思う資料が発見されることもあった。そこで、それらの資料を元にした論文も所収し、いわば『日録』の補遺書として出版したという。
諸事情によりこれまで公表されていなかった資料は以下の3点。最初の妻・たけとの結婚がなぜ破綻したかに関連する資料、教育宗教衝突論資料、『安心決定鈔』に関する資料である。『安心決定鈔』についての論文は、かつて仏教系の雑誌に発表されたことがあるが、キリスト教関係者にはまったく知られていない。
本書は「クラークに会ったか」「バプテスマ(洗礼)をおこなったか」「最期は自然死で迎えたか」など24の興味深いトピックで構成され、どこから読んでもそれぞれの側面から内村像が立ち現れてくる。
「札幌農学校の実質的な校長として来日したクラーク(Clark, William S.)は、その在日期間は一年にも充たなかったが、一期生の間に残した影響は甚大だった。その去った後、二期生として入学し、結局は、その影響によりキリスト信徒になった内村にとっては、まさに精神的な父であった。アメリカに渡った内村は、そのクラークと対面したか」
「一八八一(明治一四)年、札幌農学校を卒業した内村は、上京して農商務省に勤務後、アメリカに渡った。一八八五年九月、内村は、働いていたエルウィンの施設を去り、アマスト大学に入学。アマストに到着すると、早速、大学のシーリー学長、つづいて近くに住むクラークを同日に訪ねている。クラークは翌年三月には世を去るから、内村としては貴重な訪問 だった。札幌から帰国後のクラークの生活は不本意なものであったようだから、それだけに日本での働きに強い印象を心に残していたとみられる」(以上、2「クラークに会ったか」)
その後、間もなくしてクラークの訃報に接した内村は、英語で記事を執筆してキリスト教誌に投稿し、クラークがこの世に残した最大の事業として札幌農学校における伝道事業を紹介した。しかし、クラークの偶像化には反対し、1926年、北海道大学が創基50周年を迎えるにあたり記念式典が行われたが、内村は「私はクラークの精神は札幌に残つてゐるとは思ひません」と出席を拒否した。
7「宣教師は嫌いであったか」では、内村とヴォーリズら宣教師(伝道者)たちとの交流に加え、著者自身が彼らに接した際の印象も綴られている。
「実を言うと、筆者は若きころヴォーリズから直接話を聞いたことがある。ヴォーリズとしては即興的な話で、聞き手も数人であったように記憶している。話の内容もきわめて単純明快であったから、いまだに覚えているのだろう。それは一日二四時間の使い方で、一日を三分し、八時間は働き、八時間は好きなことをし、八時間は睡眠で過ごすという話であった。この話を聞いたとき、労働と睡眠のほかに、まだ八時間もあることを再認識させられたのであった。このように未だに記憶に判然と残る話は、こういう単純な話ではないかと思う。時期は一九五五(昭和三〇)年ころと思うから、今から七〇年も昔である。ヴォーリズもまだ五〇歳ほどで、アメリカ人としては背丈も我々日本人と変わらず、親しみやすい人柄を感じた」(7「宣教師は嫌いであったか」)
内村といえば、不敬事件が思い浮かぶが、不敬事件とは一体どのような事件だったのだろうか。歴史的背景と事実関係をふまえ、なぜ大騒ぎになったのか、どんな論争が巻き起こったのか要点をおさえて解説する。
「前述したように、内村は、第一高等中学校の教員時代、教育勅語奉読式において、明治天皇の名前『睦仁』の親署された教育勅語に対して、当時相応の『低頭的礼拝』を尽くさなかったことにより辞職に追い込まれた。それが、世間一般には『不敬事件』として広く喧伝されたが、いわゆる法律上の不敬事件ではなかった」
また、不敬事件と関連して知りたいのが内村の天皇観である。内村は明治天皇・大正天皇の崩御に際してこのように述べている。
「申すまでもなく明治天皇陛下の崩御は讐へやうなき悲痛であります、私共は之に由て天地が復へりしやうに感じます、聖書に謂ふ所の日も月も暗くなり、星もその光明を失とは斯かる状を云ふのであらふと思ひます(約耳書三の十五)、私共は今更らながらに此世の頼みなきを感じます」
「今日午前一時二十五分大正天皇陛下崩御せらる。恐懼に堪へない。同時に昭和と改元せらる」
このような内村の記述をふまえた著者の考察は以下。
「直接の言及はこれだけである。ただし、内村の文筆全体を見ると、やはり明治、大正の両天皇個人および天皇制度自体に対しては、明白な否定はみられず、むしろ親しみさえ表白している。しかし、『不敬事件』の後遺症のためか慎重な表現が失われていない。また、右の正宗白鳥の回想により紹介したように、本音は『頭に重いものを乗つけてゐない』方がよいと思っていたのではないだろうか」(以上、9「天皇をどうみたか」)
内村が著書『代表的日本人』で日蓮を取り上げたことも、内村の思想を探る上で鍵になるだろう。内村は仏教や空海、法然、親鸞といった人物をどのように捉えていたのだろうか。
「内村家先祖代々の宗教は、高野山真言宗であった。寺院は高崎にある同宗の高野山光明寺である。筆者が初めて同寺を訪ねたころには、先代住職の妻も健在で墓地を案内されるとともに、内村は、毎年夏の軽井沢への往復の途次、何度も墓参に訪れたと聞いた。また、現存する五基の墓石は、いずれも内村により建立されたものである。
ただし内村は、日本の真言宗の開祖である空海に特別の関心を示した気配はない。周知のように若き頃は『代表的日本人』に収めた日蓮が、宗教改革者のいわばモデルであった。日蓮の執筆のためには、京都の教会で牧師をつとめていた吉岡弘毅の協力があったという。執筆後も日蓮への関心はやまず、一九〇八(明治四一)年冬には、グンデルトと連れだって日蓮出生の地である千葉県小湊、修行した清澄の寺にも足を伸ばしている。内村は、まさに日本におけるキリスト教の日蓮を目指していたといっても過言でない」
ところが、1915年ごろからは法然や親鸞への関心と言及が急に増え始める。内村が「我が信仰の祖先」の中で、法然の『撰択集』、親鸞の『歎異鈔』と並んで挙げている書物が『安心決定鈔』である。著者によれば、内村旧蔵本の『安心決定鈔』は全体にわたり書き込みや線引きが見られ、同書の「仏」のところに内村はキリストをあてて読んだと推察されるという。
「このようにみてくると、内村はみずからの自伝『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(How I became a Christian)でみたアメリカのキリスト教と、その影響下に成立した日本の教派的キリスト教よりも、むしろ法然、親鸞、『安心決定鈔』の仏教に強い共感と真実を見出している。特に阿弥陀仏の願いと結果にキリストの贖罪とほとんど変わりない内容を読み取っている。同書に記されたいくつかの書き込みから判明するように、パウロのキリスト観と信仰観との同一性である」(13「他教徒との交流はあったか」)
内村研究はすでに膨大な研究蓄積があるが、それでもなお、新資料の発見や研究の切り口によって新たな側面が見えてくる。いまや内村より20年ほど年長になった著者は、年を重ねることによって「しだいに内村自身のもつ弱者に対する視点の方に、より多くの共感を覚えるようになった。いわば、ヒーローとしての内村でなく、同じ人間としての内村である」と述懐する。24のトピックからどのような内村が感じられてくるのかは読者次第だが、そこに一人ひとりと内村との出会いが生まれてくる。
【2,970円(本体2,700円+税)】
【新教出版社】978-4400213413