【書評】 『別冊NHK100分de名著 宗教とは何か』 釈 徹宗、最相葉月、片山杜秀、中島岳志 著
政治と宗教の問題から、宗教2世、世界で起こっている宗教対立まで、宗教を核に起こる事件や問題は多いが、そもそも宗教とは何なのだろうか。この原点を考え、「宗教の本質」に迫るために、4人の論者を呼び、それぞれ本を紹介しながら宗教について語る番組が制作された。本書はその書籍版である。
釈徹宗氏はフェスティンガーの『予言がはずれるとき』を切り口に宗教を語る。
「歴史上、数多くの宗教者が、神や超越的存在から『世界に終末が訪れる』などと、未来を予言するメッセージを受け取ったと主張しています。しかし、結果としてそれらの予言はことごとくはずれてきました。普通に考えれば、予言がはずれた時点で、その宗教を信じていた人たちは失望し、『もう信じられない』と離れていくはずです。しかし実際に多くの事例で起こったのは、予言がはずれた後、むしろ宗教は勢力を拡大していくという現象でした。
そうした事実を踏まえ、フェスティンガーは『予言がはずれる』という不都合なことが起こっても、一定の条件下では人々の信仰心がかえって強まる仕組みがあるのではないかと仮説を立てました」(第1章 釈徹宗「人間と宗教のメカニズム」)
人間は、思ったようにならないという「認知的不協和」に直面したとき、その心理的負担を軽減するために様々な反応をする。例えば、不協和より協和の側面を増大させる情報を獲得しようとする、不協和状態から逃避する、忘却しようとするといった行動である。ある宗教教団の「予言がはずれ」たり、問題性が明らかにされたりしても信徒が相変わらずその教団に留まるのは、そうした心理が働いていると考えられる。また、世の中に広く認められるほど、「私たちが正しかった」ということになるため、信じる人を増やす行動に出ることもある。
釈氏は、大切なのは変わることを恐れないことだと述べ、成熟した宗教的人格を持つことを勧める。
第2章ではノンフィクション作家の最相葉月氏が『ニコライの日記』を、第3章では思想家の片山杜秀氏が杉本五郎の『大義』を取り上げる。第4章では政治学者の中島岳志氏が遠藤周作の『深い河』をひも解きつつ、宗教多元主義や汎神論について述べ、念仏と祈りについて考えを深めていく。
「遠藤が『深い河』の構造を考える上で依拠したのは、イギリスの宗教学者ジョン・ヒックではないかと思います。ヒックは『世界宗教の教えは、同一の〈神的実在〉に対する人間のさまざまな認識と応答とを表わしたもの』だと言いました。わかりづらい言い方ですが、神は『同一の』、つまり唯一の存在であり、それに対して人間はさまざまな形で応答する。その『さまざまな形』が宗教だということです。……
クリスチャンだったヒックはこの包括主義を乗り越え、キリスト教も仏教もイスラームも同等の存在であり、唯一絶対の真理が異なる現れ方をしているに過ぎないという『多元主義』の立場を取ろうとしました。これは、従来のキリスト教においては非常にラディカルな考え方です。真理が、神が、さまざまなところに現れてくるということは、キリスト教の伝統的な考えである『神の唯一性』と対立するからです。万物が神の現れであり、あらゆるものが神そのものであるとする汎神論が異端とされてきた理由でもあります。その『多元主義』を、キリスト教と矛盾しない形でどのように統合するのか。そのことに、ヒックも遠藤も挑もうとしました」
『深い河』の舞台はガンジス川のほとり。遠藤がガンジス川に託したかったのは、インドやヒンドゥー教といったものを超えた普遍的なものだったのだろうと中島氏は述べる。そして寄稿の最後に、中島氏自身が「祈った」体験を綴る。それは我が子が高熱を出して、交代で寝ずの番をして、ようやく熱が下がった朝のこと。窓を開けるととても気持ちがよく、歌が口をついて出たが、ふいに涙が出て止まらなくなった。そのとき、「自分はずっと祈っていたんだ」と気づいた。そして自然と口をついて出た歌と涙こそが、親鸞のいう「念仏」なのだと感じたという。
「念仏は、『称えよう』と思って称えるものではない。自分の情けないほどの無力さを知り、うなだれて、『祈ろう』という意識すら持てないような次元に立たされたときに、人は初めて他力――仏の力へと開かれる。そしてそのときに、自ずと発せられるのが念仏なのだということを、初めて理解したような気がしました。
他力に開かれたときに、自ずと発せられるもの。そう考えれば、念仏もまた、『私が称える』という主格的なものではなく、与格的なものとしてしか存在し得ないのだと思います。
浄土真宗では『祈り』という言葉を使いません。しかしそれは、自力による『祈り』には何かを達成しようという驕りがあると考えるからではないでしょうか。そうではない、自分の無力さと向き合うなかで自ずと訪れる『祈り』は与格的なものであり、それは念仏とも通じるものだと言えるでしょう。
キリスト教など、他の宗教における祈りも、本来は同じものなのではないでしょうか。そして、『深い河』の最後、美津子がガンジス河で捧げた祈りも、そういうものだったのではないかと思います」(以上、第4章 中島岳志「神はどこにいるのか」)
宗教が人の心の一番大切な部分を担うものであるならば、これからも宗教に関連した葛藤が発生し、ときには事件や問題になることもあるだろう。そのようなときに、自らの狭い宗教観を脱して、より広い宗教理解に立てるかが問題を解く鍵になるかもしれない。他者理解に宗教の知識は欠かせない。自己と他者との両方に開かれた認識を持つために、ハンディではあるが時間をかけて読みたい一書である。
【1,100円(本体1,000円+税)】
【NHK出版】978-4144073151