【書評】 『言問橋の星の下で 北原怜子と蟻の街』 澤田愛子

2015年、ローマ教皇庁(バチカン)列聖省により「尊者」として認定された北原怜子(さとこ)の生涯を詳らかに描いた評伝が刊行された。著者は、生命倫理やホロコースト、終末期ケアなどを研究、教授してきた学術研究者。綿密に資料を検証し、可能な限り正確に記述しながらも、彼女の内面や信仰にも重点が置かれている。
「北原怜子は昭和四年(一九二九年)八月二三日に東京市豊多摩郡杉並町馬橋一五五番地(現東京都杉並区阿佐ヶ谷南一丁目五の三)に北原金司と北原媖の三女として産声を上げた。その日は当時のカトリックの典礼暦で、聖マリアの汚れなきみ心の祝日でもあった。後の怜子の聖母マリアへの特別な信仰を暗示しているようであった。怜子の上には姉二人のほか兄一人がいた。三番目に生まれたこの女の子を父親は怜子(さとこ)と名付けたが、それは賢く真理を悟る子になるようにとの願いから付けたものだった。その前年に一家は父金司の東京帝大経済学部への入学を機に北海道から東京に引っ越してきたばかりであった」(第一章 蟻の街と出会うまで)
妹が光塩女子学院に入学したことをきっかけに、怜子はキリスト教に接近。副学長のマドレ・アンヘレスから公教教理を学び、20歳のとき神言会のアルベルト・ボルト師から受洗した。霊名はマリア。1950年、ゼノ修道士と出会い、怜子の人生は大きく変わっていく。
「怜子は朝五時には蟻の街に行った。ラジオ体操に付き添い、お堂が建ってからは子供たちとそこで朝の祈りをした。その後、大きな子を学校に送り出す。そのあと、昼間は各部屋を回って小さな子の世話をし、母親たちの内職も指導した。午後二時から四時までは子供たちの入浴の世話をし、トラホームの予防のため全員に点眼をした。まさに薬剤師怜子の本領発揮の時だった。それから小さい子と大きな子の学習指導 をして帰宅は常に深夜近くになった」
「バタヤ」とは屑拾いをして生計を立てる者のこと。怜子は自らもバタヤとなって、バタヤの人たちが住む「蟻の街」で一緒になって働いた。
「板塀の中は一つの街のようになっていたので、いつしかそこは蟻の街と呼ばれるようになったが、正式な名称は『蟻の会』である。『蟻の会仕切り場』と書かれた入り口から入ると事務所に受付があってそこにはマイクが置かれていた。中央の通路を挟んで様々な目的の小屋が並んでいる。住民の住居となっている小屋のほか、屑の仕切り場やぼろ倉庫、作業場が連なっている。怜子が通い始めてから約半年後には、十字架の付いた二階建てのお堂ができ、食堂も風呂場もできた」
やがて怜子は「通い」ではなく、そこに住み始めた。すると、ある変化が起こる。
「怜子が通いバタヤではなく、蟻の街に住み始めた頃より、蟻の会の共同生活にキリスト教の祈りの要素が入っていったことだ。『所詮、金持ちのお嬢さんの道楽』と冷ややかに怜子の活動を見ていた蟻の街の人々の眼差しが変わっていったのである。『単なるお嬢さんの道楽ではない。北原先生は真剣に我々の一員になろうとしている』と感じ始めた人たちは、朝六時、事務所からスピーカーによる朝の挨拶の後に、キリスト教の『主の祈り』が流れるのに合わせて、各自の場所で一緒に主の祈りを唱え、内勤者は事務所前に集まって唱えるようになっていった。こうして、鎮の街は徐々に祈りの街へと変貌していった」(以上、第三章 通いバタヤの怜子の献身と試練)
敗戦から数年が経つと、バタヤ部落追放の動きが激しくなっていった。バタヤの取り締まりが本格化し、各地のバタヤの仮小屋集落が行政により潰された。そして1954年、蟻の街にも東京都から「換地をあっせんするから立ち退いてほしい」と通告があった。
「昭和三三年の暮れが近づいてきた頃だった。東京都は東京湾の八号埋め立て地を換地として用意する。まずは借地という条件でいくが、契約のためには即金で二五〇〇万円を支払えというものだった。……都の提案を受けて、松居や小沢、塚本ら蟻の街の幹部らは怜子も交えて連日協議した。焼き払いで追い出されるよりはゴミの埋め立て地でもましだということで、この換地を受け入れることになったが、即金で二五〇〇万円の条件はどうしても無理だった。そんなお金はどこにもなかった。窮状を聞き付けたカトリック東京大司教区や上智大学等カトリック系のミッションスクールが金を貸そうと考えたが、銀行は蟻の会が正式に登録された組織ではなく、隅田川河川敷の場所も不法占拠で法的には住所不定となっていたため、金の貸し借りはできないと言ってきた」
怜子が命がけの祈りをした。すると、都側が2500万円を1500万円に減額した上、五年割の年賦にすることを提案してきた。蟻の街の幹部らは即座に承諾した。消滅の危機を脱したのである。だが、生来病気がちであった怜子の体は限界を迎えていた。
「怜子の容態は二二日に急変した。……
二三日朝、怜子は眼を覚まし一杯の水を母に頼んだ。媖が娘の額に手を当ててみると、高熱だった。怜子は水を飲むと一言『おいしい』と言って微笑みながら昏睡状態に入って行った。……
怜子は二三日朝八時一〇分、深く愛した天主のみ元に帰って行った。享年二八歳だった。あれほど望んでいた『隣人への愛のために命を捧げ尽くす生き方』を完遂して召されて行ったのだ。イエス・キリストのように富んでいたのに、自ら貧しくなって、最も見捨てられた人々の友となって、捧げ尽くした生涯だった」(第四章 大試練と精神的飛翔、そして愛に死ぬ)
現在、コンベンツァル修道会日本管区では北原怜子の列福運動を進めている。本書の第一部は評伝であるが、第二部には「列福調査報告書」からの抜粋などが収録されている。
蟻の街の移転先で建てられたカトリック潮見教会聖堂入口には、蟻の街時代の木製の十字架が展示されている。教会の庭には怜子の銅像。その台座には、怜子が生きる糧とした聖書の言葉「われは主のつかいめなり。仰せの如く我になれかし」が刻まれている。
【1,980円(本体1,800円+税)】
【聖母の騎士社】978-4882163879