【雑誌紹介】 何をもって歴史とみなせるか 『福音宣教』4月号

月間テーマ「日本文化とキリスト教」。小俣ラポー日登美(京都大学白眉センター特定准教授)が「殉教者の記憶と歴史化をめぐって」と題して、記録に残らない殉教者に目を向ける。
「キリスト教会における『聖人になるための制度』は、もともとそこまで厳格ではなかった。むしろゆるかった。聖人という特別な存在が成立した地中海世界では、自然発生的な聖人崇敬の地域的慣習が認められていた」
「しかし一六世紀に西ヨーロッパを中心に宗教戦争が起こり、カトリック教会に対立したプロテスタントが聖人崇敬の文化を迷信的だと糾弾するようになると、カトリック教会内では制度改革が行われた。プロテスタントに安易に批判されるような信仰・文化は見直される必要がある、というわけだ。その結果として、カトリック教会で聖人になることは厳格化された。これ以降、現代にいたるまで、聖人を産み出す過程というのは、高度に専門的な事務作業になった」
「列福・列聖の制度のしくみを説明されると、たいへん厳密で詳細なペーパーワークに基づいていると感じる。その一方で、一六二二年に実施された長崎二十六殉教者の聖性を審査する調査の途中では、証人を頼まれて約束をすっぽかしたりするようなことをする人も現れた」
「実際、証人が証言をすっぽかしたり、証人の記憶が曖昧であったりしても、結果的には結局差し障りがなかった。当時の基準で大切だったのは、証人がきちんと身元を保証されたキリスト教徒であることだったのだ。証言のクオリティーや信憑性よりも証人自身の信仰が重要であるというのは、現在の価値観からすると驚きだ。それでもその価値観は、当時においては重要視されていたし、調査の結果聖性が認められた長崎二十六殉教者は現在も崇敬対象となっている。それどころか、いまや日本を代表する歴史的人物たちだろう」
「人の記憶に残り、歴史となる殉教者といっても、過去の様々な個別的文脈によって、現代における扱いがすっかり変わってしまうのがひしひしと実感される。文字資料に依拠しない方法で記憶化の対象になった人たちは、現在の歴史学やカトリック教会の定める制度ではすくい上げることができない。そう考えると、なぜ資料に残される人々ばかりが、『殉教者』として記憶の対象となり顕彰の対象になるのかが不思議に思えてくる。突き詰めていくとそうした疑問は、何をもって歴史とみなせるのかという大きな問いに収斂していくのだ」
【660円(本体600円+税)】
【オリエンス宗教研究所】