【書評】 『ギリシア教父の世界――ニカイアからカルケドンまで』  F・M・ヤング 著/関川泰寛、本城仰太 訳

 本書はFrances M. Young, From Nicaea to Chalcedon: A Guide to the Literature and its Backgroundの翻訳である。原著は1983年に出版されたものであるが、邦訳の底本になっているのは2010年に出た第二版である。すでに教父研究・古代キリスト教研究上の古典といってよい立ち位置にあり、その邦訳が出たことそれ自体喜ばしい。評者も両訳者に敬意を表する。

 さて、章立ては以下の通りである(以下、章節はすべて算用数字表記)。

1章 教会史の誕生とその結果

2章 アタナシオスとニカイア神学

3章 信仰の英雄たち――砂漠の修道士の著作

4章 カッパドキアの教父たち

5章 時代の特質――4世紀後半の対照的な人々

6章 キリスト論論争に関する著作

 本書の大きな特質は、単なる概説ではなく多様なアプローチの橋渡しを意識的に心がけていることである。当然のことと思われるかもしれないが、人物にせよ文献にせよ、教理史や教会史、古代末期など(残念ながら相互に没交渉になりがちな)それぞれの領域で別個に研究されがちな点を引き比べつつ吟味している点は、どの分野に関心のある読者からも参考になるであろう。具体的な文献やその文脈をめぐる記述も、このことによって価値を増すものとなっている。各節に「さらなる読書のために」という文献一覧が付いているが、その選択もバランスが取れており、大学院生・研究者は大いに参考にされたい。ただし、当然ながら2010年以降の文献は適宜補う必要がある。

 また、類書のごとくニカイア公会議、あるいはアタナシオスから始まるのではなく、第一章で教会史史料(エウセビオス、ソクラテス、フィロストルギオス、ソゾメノス、テオドレトス)に焦点を当てている点も特筆すべきである。そもそも事件の時系列や文脈、その評価などは、研究者たちが教会史史料を読み解きつつ再構成したところが大きいが、そのことは看過されがちである。このことが史学的接近法を重視する読者以外にも興味深くなりえることを、例を引いて示したい。

 土橋茂樹『教父哲学で読み解くキリスト教――キリスト教の生い立ちをめぐる3つの問い――』(教文館、2023)では、アレイオス論争の経緯をソクラテス『教会史』の引用を通して説明する(66頁、138頁)。そこでは具体的なアレイオスの教説が挙げられつつ、論争の原因はアレクサンドリアの司祭アレイオスとその主教アレクサンドロスの間の確執とされている。そこでヤングによるソクラテス『教会史』評、例えば彼が真理全体を知っていると主張する頑迷な「異端」に劣らず、相互に排斥・非難を応酬する教会政治全般に冷ややかな態度を示している(64~65頁)という評価を踏まえると、土橋がソクラテスの記述を留保してより複雑な諸問題への注意を促す意義も、ヤングが既存の説明を批判的に吟味しつつ具体的な史料により議論を進めることの重要性も、理解しやすくなるだろう。

 本書はニカイア公会議とカルケドン公会議という二つの大きな公会議の間に何が起きたかを主題とする。このような制約上やむをえない部分もあろうが、アレクサンドリアのキュリロスとその一派のいわば熱狂的すぎるネストリオス弾劾が、教会政治上「無垢」なアンティオキア派のテオドレトスによりしかるべき反論を受け、それにより「無事」カルケドン信条に至った、というような締め方になっている。ヤングが詳しく再構成しようとした複雑な文脈は、カルケドン公会議のあとも続いたということに注意が必要だろう。

 翻訳は原著の情報をなるべくそぎ落とさないような形で作られており、基本的に平明で、通読するのに問題はないと思われる。ただし、とりわけ関川氏の専門であるアタナシオスをめぐる部分を離れると、用語の揺れや、正しい理解を妨げる訳文・訳語も残念ながら散見される。例えば、316頁に「肉を取らなかったものは、癒されることがない」とある。ナジアンゾスのグレゴリオス『クレドニオスへの第一の手紙』の32節にみえる一文である。原文は’what is not assumed is not healed’なので、短文の訳としてもよろしくないのであるが、神学・教理の観点から見ても危険な誤訳である。

 というのも、上記の命題だと、「癒されるのは、肉を取ったものである」という対偶を含意することになるが、続く「この格言は、肉を取られたキリストは人間的な魂を持たなかったという考えに対して向けられたものである」という文章と併せて読むと、癒されるのはキリストである、という珍妙な命題が出てきてしまう。そうではなくて、正しい訳文は「〔キリストに〕受け取られなかったものは癒されない」であろう。この命題は、「癒されるのは、キリストに受け取られたものである」という対偶を含意する。したがって、続く文で示されている、キリストは人間の肉を取ったが魂は取らなかった、という考えが、それでは、人間の魂は癒されないではないか、と反駁されるわけである。なお、私の提案した訳は『中世思想原典集成2盛期教父』(上智大学中世思想研究所編、1992)所収の『クレドニオスへの第一の手紙』の邦訳(小高毅訳)から採ったものである。

 総じて、本格的な探究・研究に用いる際には他書や原著にアクセスすることが望ましい、ということになる。ただしそういった場合でも、この大著をひとまず総覧できるという点で、本訳書に価値があるのは間違いない。本書が多くの読者の手に渡り、多様で力動的な「ギリシア教父の世界」への関心がいっそう増していくことを願うものである。

(評者・砂田恭佑=大東文化大学文学部歴史文化学科研究補助員・講師)

【8,470円(本体7,700円+税)】
【教文館】978-4764274907

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