【雑誌紹介】 社会に溶け込む「無感覚さ」 『福音と世界』6月号

特集「パレスチナを<視る>わたしたち」。「ストリーミングされるパレスチナ――ジェノサイドの無感性的オペレーションに同期する生と政治」と題して北川眞也(三重大学人文学部准教授)が問う。
「二一世紀のジェノサイドは世界の眼前で行われる。イスラエルによるパレスチナ人の殺戮を伝える情報が流通している。爆撃、遺体、残虐行為の映像が、ソーシャル・メディアを通じて、ガザから遠く離れたわれわれのスマホやパソコンの画面へと現れる」
「通常なら、差別された生(障害者、移民、受刑者など)は特定の空間へと不可視化されるからこそ、社会はその生に、その暴力に無感覚になると考えられる。だが、ここでは逆のことを問う。スマホの小さな画面への無数の可視化ゆえに、ジェノサイドへの無感覚さ、いわばこの破滅的な暴力に反比例するかのような無感覚さが社会的生に溶け込んでいるのではないかと」
「ここからさらなる問いが浮上する――この無感覚さ、無感性さが、イスラエルによるガザ支配のオペレーションと意図せずして同期しているのではないか。そして事態がこうであるなら、パレスチナの地に宿り続ける抵抗、蜂起、そして生と交歓する政治は、いかなる感性、いかなる回路において開かれうるのか」
富田正樹(同志社香里中学校・高等学校教諭、徳島北教会牧師)による連載「ぼやき牧師のさすらい説教録3」は「聖書で人を殺すな」。
「キリスト教の信仰に基づいて『トランスジェンダーなど存在していない。存在してはならない』と言い切る国家の最高権力者が現れる時代に、私たちは生きています。これを礼賛する日本のクリスチャンも少なくはありません」
「『存在するな』ということは『死ね』と言っているのと同じです。『シスジェンダーの男と女しか存在しない。それが神のご意志だ』と言い切ることは、トランスを殺しても神の前では罪ではないということになります。つまりこれは、『聖書で人を殺す』ということなのです」
「しかし、私がここまで説き明かしてきたように、イエスはトランスを守りました。イエスは紛れもなくアライ(擁護者・支援者・同盟)なのです。ということは、この種のキリスト教とイエスは真っ向から対立します。事実、イエスを信じながらキリスト教に絶望して、教会を去ってゆく性的少数者は少なからずいるのです」
「それでは、『キリスト教はイエスの愛に根ざす』と信じたいクリスチャンは、自分たちの教会をどうすればよいのでしょうか。キリスト教会は真っ二つに割れてしまうのでしょうか。……あなたはどう思いますか?」
【660円(本体600円+税)】
【新教出版社】