【雑誌紹介】 「我、信ず」は自己責任 『礼拝と音楽』季刊207号

ステファン桑原建夫(前橋ハリストス正教会長司祭)による特別寄稿「詠んで、歌って、唱える信仰告白」。
「キリスト教がキリスト教であるための条件の一つが、『信経を唱えること』だといえるでしょう。正教会では『信経』という言葉を用いますが、キリスト教他派では『信条』という呼び方が一般的でしょう」
「信経は必ず『我、信ず』(私は信じます)という言葉で始まります。この言葉は信経だけでなく一生続く信仰生活を貫く重要な言葉です。『我、信ず』という非常に短い言葉ですが、これこそ、最重要で最大の信仰告白です」
「さまざまな理由で、それこそ自分という種が岩場や雑草が覆い茂った地を迷い、『やれ教会は』『だから信仰は』と、『あぁでもない、こうでもない』と揺れ動く。そして苦しむ。ですが信じたのは自分。今もいつも世々に『我、信ず』は自己責任なのです。こういった心の荒波に嘆き、苦しむのは信経が『自分自身の』信仰の告白だと理解できないから生じます。本来は生きるための道標であるはずなのに」
「私たちの口は神を賛美する(祈る)ために用い、口から発するのは神を賛美する言葉に徹するべきです。そして、その言葉は神に向けられる告白であることが原則です。神への告白の中身には、人それぞれにいろいろなことがあるでしょう。『~しました』、『~しません、できませんでした』と。それはそれで大切な悔い改めですが、私たちが真っ先にすべき神への告白は信仰の告白なのです」
「『信仰の告白なんて、簡単にできる』という方もおられるでしょう。それは結構なことです。でも、実際にはほとんどの、多くの人たちは、いざ『自分の信仰は?』と聞かれたら、『あなたの教会の教えは?』と問われたら、真っ先に口ごもるのではないでしょうか。どうしてでしょう。信じていないからではありません。自信がないからです。『間違っていたらどうしよう』、『変なことを言ってしまうのではないか』という不安(自分の信仰への不安ではない)が、原因で起こります」
「このような不安を信経は打ち破ります。世界中のキリスト教が唱える信経は、多少の違いはあれど共通の『信仰箇条』ですから、困ったときは、迷ったときは堂々と信経を唱えれば間違いないものとして権威をもつものなのです」
【1,500円(本体1,364円+税)】
【日本キリスト教団出版局】















