【書評】 『宗教活動におけるマイクロアグレッション キリスト教会の日常に潜む暴力と向き合う』 コディ・J・サンダース、アンジェラ・M・ヤーバー 著/真下弥生 訳

本書の「訳者あとがき」において、マイクロアグレッションの「マイクロ」という語への注意喚起がなされている。
「『マイクロ/ミクロ』は『微小な』『小さい』を意味する接頭語もしくは単独の名詞として、英語でも日本のカタカナ語でもよく使われている。そのため『マイクロアグレッション』も『微小な』差別的行為と解釈される傾向があるが、ここでの『マイクロ』は『日常で遭遇する、経験する』の意、対義語の『マクロ(macro-)』は国の制度や法律、メディアなどのマスな社会の造りを指す」(278~279頁)
つまりマイクロアグレッションとは「ほんのちょっとした対人トラブル」という程度の出来事を指すのではない。こちらが意図せず/悪意なく行った言動により、人種やジェンダー、セクシュアリティなどのさまざまな位相において、相手の尊厳を奪い、無化し、深いレベルにおいて傷つける出来事を指す。ちなみに意図してこのような行為をすることはマイクロアサルトとして区別される。
マイクロアグレッションは行為者自身、悪意がない/気づいていないため、マイクロアグレッションされた被害者は「『このマイクロアグレッションは本当に起きたものなのか?』『自分はこのマイクロアグレッションに応答すべきか否か?』『自分はこのマイクロアグレッションにどのように応答したらいいのか?』」(148頁。同様の表現は本書に頻出する)といった思考の袋小路に閉じ込められ、周囲から取り残され、孤独のうちに精神的エネルギーを消耗することになる。マイクロアグレッションする側は、そのような発言をしたこと自体、すぐに忘却するにもかかわらず。
本書ではアメリカの教会や神学校で起こり得る、さまざまな具体的マイクロアグレッションの事例が語られ、また「アクション」として、それらを解決するにはどうしたらよいのかへの若干の提案もなされる。ただ、さらに重要であると思われるのは、第6章以降のいくつかの事例だ。
そこでは牧師やスタッフがマイクロアグレッションをしてしまう。そして、被害者から怒りや悲しみに満ちた、しかし勇気ある指摘を受ける。その際に、指摘された側は自己防衛に走り「差別の意図はなかった」とか「いや、それは気にしすぎ」「あなたは自意識過剰だから攻撃的になる」といった反応を(口には出さずとも内心で)しがちだ。しかし第6章以降の事例では、指摘された側はまず謝罪する。それも、とりあえず謝ってことを終わらせようとするのではない。彼ら彼女らは続ける。
「『シエンナ、今夜はとても疲れただろうから、これからさらに話を聞かせてもらおうというつもりはないけれども、もう少しこの話を続けてもいいだろうか?』」(201頁)
「『本当に申し訳ありませんでした。お急ぎではなかったら、少しお話ししてもいいですか?』」(204頁)
「委員たちは、自分たちが与えた被害を修復することはできないが、自分たちの行為の責任を取り、謝罪し、前に進むための新たな方法を提案することはできるという点で一致した」(227頁)
相手の尊厳を大切にしていることを態度で示す。それが可能となるのは、自分がマイクロアグレッションしたことを認め、謝罪することと、自己防衛および自己正当化のための弁解や反論をせず、まず相手の話を聴こうとする姿勢である。そこから、今後なにをどのように改めていくのかという具体的な行動も育まれていく。
本書では牧会カウンセリングがしばしば、個人の心情の癒しに傾き過ぎてきたことも指摘されている。牧師として耳が痛い。人が深い傷を負うとき、そこには必ずといっていいほどその人の社会的文脈が関係している。それを無視してカウンセリングすることは、相手に「社会は変わらない。だからあなたが変われ」と、マイクロアグレッションしているのと同じことなのだ。
【2,970円(本体2,700円+税)】
【新教出版社】978-4400407645
















